キャラグッズや関連本が次々と……暴れん坊将軍が巻き起こした「江戸の象ブーム」って何だ?
動物園の人気者ゾウは、現代人のみならず江戸の人々の間でも一大ブームを巻き起こしました。火付け役となったのは、あの「暴れん坊将軍」。フリーライターの県庁坂のぼるさんが当時の熱狂ぶりを解説します。知識欲旺盛な徳川吉宗が注文 東京のど真ん中にある浜離宮(中央区浜離宮庭園)は、気軽に出掛けられる都心のエアポケットです。近隣では築地市場跡や周辺の工事も行われていて喧噪(けんそう)が絶えないというのに、1歩園内に入れば大都会の中とは思えない空気が漂っています。最近では、コロナ禍でも「3密」を避けてホッとひと息つけるスポットでもあります。 かつては浜御殿と呼ばれる徳川将軍家の別邸だった歴史もある浜離宮。そんな時代に、象(ゾウ)が飼われて、江戸に象ブームを起こしたことがあるのです。 動物園の人気者、象が江戸でも一大ブームを巻き起こした。その経緯とは?(画像:写真AC) 江戸に象がやってくる――。そんな話で江戸の人々が湧いたのは、「暴れん坊将軍」でも知られる徳川吉宗の治世(ちせい)。時に1729(享保14)年のことです。 吉宗といえば「享保の改革」で緊縮財政を政策とし質素倹約を強調したイメージが強いのですが、同時に産業の振興を奨励し、海外からの新知識の輸入に積極的でした。1720(享保5)年には洋学奨励のため、それまで禁じられていた漢訳洋書の輸入制限を緩めてキリスト教に直接関係ない本の輸入を認めるようになります。 それまでも日本には、象がやってきた記録が何度かありました。 記録に残る最古の事例では1408(応永15)年、現在の福井県にあたる若狭国小浜にやってきた亜烈進卿(あれつしんきょう)の使節の南蛮船が象をもたらしたとされています。 亜烈進卿は、当時のスマトラ島のパレンバンに勢力を持っていた華僑の頭目とされる人物です。この象は京に上り、時の将軍・足利義持(あしかが よしもち)にも謁見(えっけん)したと伝わっています。 その後、南蛮貿易の盛んな時代になると何度か象は日本にもたらされています。大友宗麟や豊臣秀吉、徳川家康も象と謁見したという記録が残されています。 はるばるベトナムから来た象はるばるベトナムから来た象 もともと象は仏典などを通じて存在は知られていた生物でした。しかし、文章や絵では知られても、生きている象は限られていました。知識欲の旺盛な吉宗は、それをぜひ見てみたいと思い象を注文しました。 吉宗の意向を受けて、幕府は長崎の清国商人に象を注文します。注文された象が日本へやってきたのは1728(享保13)年のことです。記録では清国商人の鄭大威という人物が交趾(ベトナム南部)からオス・メスのつがいを安南人(ベトナム人)の象使いと共に上陸させたといいます。 巨大な象は船から降ろすだけでもひと苦労です。象を下ろすためだけに、わざわざ突堤を築くほどでした。長崎でも大評判になった象は、しばらく唐人屋敷で飼育されますが、メスの方は冬を越せずに死んでしまいます。 一方、生き残ったオスの象は、冬があけると江戸に向けて運ばれることになります。 運ぶといっても、トラックなどありませんし、象を何かに載せて運ぶことは無理です。そこで、ほとんど陸路を歩いて運ぶことになります。 長崎から江戸まで約1480km、象は陸路を歩いて移動した(画像:(C)Google) 長崎から江戸までは370里(約1480km)の長旅です。前代未聞の輸送に、象が歩く街道沿いにはお触れが出されます。お寺の鐘を鳴らさないことや、往来を避けること。道路の整備や清掃などなど。 なお、見物するのを止めることはできないと考えたのか、見物人は音を立てないようにとの注意をされています。 もっとも難所だったのは九州から本州への横断です。当初は小倉から船で運ぶことを考えていましたが、長距離であるために断念。 大里の海岸(北九州市門司区)から対岸に渡ったと記録されています。関門海峡に面したこの海岸は向かいはすぐ本州ですが、狭いぶん潮の流れは急なもの。相当の苦労があったことが想像できます。 象キャラグッズが次々に発売象キャラグッズが次々に発売 途中、京では宮中に入り中御門天皇(なかみかどてんのう)にも謁見しています。このときに、象であっても無位無官の者が参内はできないということで「広南従四位白象(こうなんじゅしいはくぞう)」が象に授けられています。江戸時代において従四位は、老中などになる大名や外様大名のうち10万石以上の者が受ける位です。相当えらい扱いだったというわけです。 その後、木曽三川や箱根などの難所を越えて、いよいよ象が江戸にやってきたのは1729(享保14)年5月25日のことでした。もう、象がやってくるという話は伝わっており、道中も含めて大ブームになっていました。 あちこちで売られたのはキャラクターグッズです。双六(すごろく)やオモチャなどが次々と登場しました。 こう書くと子供向けのものばかりかといえば、そんなことはありません。刀のつばや印籠など大人向けの持ち物でも象を扱ったものが人気になったといいます。 そして、関連書籍も次々と出版。智善院撰『象誌』、中村平五撰『象のみつぎ』、林大学頭撰『馴象談(じゅんぞうだん) 』、井上道熙撰『馴象俗談(じゅんぞうぞくだん) 』といった本が出版されたという記録があります。この時代の知識人も、空前の象フィーバーに乗らない手はないということだったのでしょう。 象に関する書籍が次々に出版された(画像:新日本古典籍総合データベース) さらに、赤坂山王日枝神社の祭礼には張り子の象山車も登場しました。これは『山王祭礼図屏風』にも描かれており、江戸時代に長らく定番の山車として定着していたようです。 この後、安南人の象使いから指導を受けた上で象は浜御殿で飼われることになります。 ところが翌1730(享保15)年には、早くも象を払い下げるお触れが出されています。それというのも、象を飼育する象御用掛は7名。総出で餌を調達し、日々の世話を行うわけです。その費用たるや年間200両もかかりました。 維持費がかさんで払い下げに維持費がかさんで払い下げに 貨幣価値を一概に説明することは困難ですが、貨幣博物館の資料では「米価から計算した金1両の価値は、江戸初期で約10万円前後、中~後期で4~6万円、幕末で約4千円~1万円ほど」としています。 膨大な費用がかかるから、幕府もさっさと手放したくなったわけですが、引き取りを申し出る者などいません。結局、1741(寛保元)年になり、中野村(中野区)の百姓源助らに払い下げられました。 中野区の朝日が丘公園には、かつて象が飼われていたことを記す説明板が(画像:中野区) この源助という人物は茶屋も営んでいる商売に長けた人物でした。ですので、象を引き取るとやってきた庶民から見物料を取るだけでなく、象のフンを乾燥させて「象洞」という名前をつけて麻疹などによく効く特効薬だとして売り出し、大いに儲けます。 しかし、管理が悪かったのか気候が合わなかったか、象は2年後の1743(寛保2)年に病死してしまいます。けれども、解体された象の骨と牙はなおも見世物として人々の人気を呼び、源助は長らく収入を得たといいます。 今では浜離宮に、象を飼っていたあとを見つけることはできませんが、中野区の朝日が丘公園には象が飼われていたことを示す説明板が建っています。
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