若者が集まる渋谷区「道玄坂」 実はかつてお茶の名産地だった!
2021年10月20日
知る!TOKYO若者の街・渋谷。そんな同エリアの道玄坂にかつて茶畑がたくさんあったのをご存じでしょうか。その歴史について、ライターの春日ルナさんが解説します。
江戸では静岡茶より宇治茶だった
お茶といえば静岡茶や宇治茶、狭山茶が有名です。しかし、戦前の東京では「渋谷茶」とうお茶が栽培されていました。今回は渋谷茶とその姿を消した理由について、ご紹介します。
皆さんは「上喜撰(じょうきせん)」という言葉をご存じでしょうか。元は「喜撰」というお茶のなかでも上級なものを指す言葉でしたが、のちに高級なお茶全般を表すようになりました。ペリー来航時の
「泰平(たいへい)の眠りを覚ます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」
という落首(風刺などの意を含めた匿名のざれ歌)で知っているという人も多いでしょう。
江戸では上喜撰のなかでも宇治茶が一番よいものとして知られており、静岡茶はまだ知られていなかったようです。お茶の西の本場・宇治の上喜撰は上方から伝わり、江戸の身分の高い武士や寺院で重宝されました。
道玄坂上には茶畑が広がっていた
西の宇治茶に対抗しようとして、東日本で名を挙げたのが狭山茶。都市としての江戸が発展するとともに需要が増し、江戸近郊の村落でも栽培されるようになりました。
そのひとつが、当時は広々と田畑が広がっていた渋谷だったというわけです。元禄年間(1688~1704年)ごろのことで、農民たちもお茶を飲むことがあったようです。

特に享保年間(1716~1736年)に茶畑が多く、栄えたのが現在の道玄坂かいわいです。道玄坂の上の一体の、特に北側がに茶畑が多く、そこに存在していた「茶の木稲荷」という稲荷社が人気になり、周辺が繁盛していたという文書が残されています。
もっとも茶の栽培が盛んになっても、茶をどのように製造するかという知識は少なく、よいお茶を作ることが困難に。そのため、渋谷茶は近隣の商家などで飲まれる程度にとどまり、名を上げられませんでした。
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