みんな大好き「かつサンド」 初期ブームを作ったのは花街の芸者だった!

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みんな大好き「かつサンド」 初期ブームを作ったのは花街の芸者だった!

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清水麻帆(文教大学国際学部准教授)のプロフィール画像

清水麻帆(文教大学国際学部准教授)

今ではメジャーな食べ物のなかで、花街や芸者衆とともに発展したものがあります。いったい何でしょうか。解説するのは文教大学国際学部准教授の清水麻帆さんです。

花街で生まれた「かつサンド」

 芸者屋などの集まった花街――その最盛期は明治から大正、昭和初期にかけてでした。東京の代表的な花街といえば、

・柳橋
・新橋
・赤坂
・芳町(現・中央区日本橋人形町)
・神楽坂
・浅草

でした。そうした花街や芸者衆とともに発展し、今も広く一般に食べ続けられているものがあります。今回はそれらについて取り上げます。

※ ※ ※

 ひとつ目は「かつサンド」です。かつサンドの発祥は1930(昭和5)年創業、箸で切れるやわらかいとんかつを考案した、上野のとんかつ屋「井泉(いせん)」(文京区湯島)といわれています。

 井泉は今も変わらぬ人気店。戦前は1日約600人、バブル期は1日約600~700人が訪れ、コロナ前でも約550人に上ります。かつサンドが生まれたのは、創業に近い1930年代頃です。

 とんかつをパンに挟む発想は、初代女将(おかみ)ならではでした。初代店主・石坂一雄さんの孫で、3代目女将(代表取締役)を現在務める石坂桃子さんによると、祖母の初代女将・石坂登喜さんは明治生まれだったものの、朝食はパン食に紅茶でサンドイッチを好んでいました。実際、後述する銀座の資生堂フルーツパーラーにもよく通っていました。

 そんなハイカラな初代女将がかつサンドのヒントを得たのは、ハムサンドからです。初代店主が店でとんかつを揚げているのを見ていたとき、「とんかつをハムサンドのようにパンに挟んだらおいしいのではないか」と考えました。すでに当時、かつサンド用のソースも考案されています。

 また特筆すべきは、通常のパンより小さいパンを特注して、かつサンドを作ったことです。その背景には、井泉がある湯島(当時は下谷同朋町)は当時花街として栄えており、多くの芸者衆が同店にとんかつをよく食べにきていたことがあります。

 芸者衆と交流のあった初代女将は、芸者衆の口元が汚れたり、口紅が取れたりしないように、小さいサイズのパンを特注しました。また、芸者衆はお座敷にいるあいだは食事を取れないため、芸の合間につまめるという思いもありました。

「井泉」のかつサンド(画像:井泉)



 初代女将の思いやりから生まれた井泉のかつサンドは、口を大きく開けなくても食べられるサイズで、今も当時のままです。

 そのほかの人気商品として、井泉にはたまごとカニサラダのサンドイッチもあります。たまごのサンドイッチは日本で定番ですが、カニサラダのサンドイッチはまだマイナーで、どちらかというとアメリカなどでよく見かけます。こちらもハイカラな商品といえます。

ハイカラだった「ソーダ水」

 次は、若者に人気のクリームソーダの前身である「ソーダ水」です。

 資生堂パーラーの広報担当者によると、ソーダ水は1902(明治35)年、現在の資生堂パーラーの前身・資生堂薬局の一角に設置されていた『ソーダファンウンテン』で、アイスクリームとともにスタンド方式で販売されていました。このソーダ水は、当時人気を博し、銀座の一大名物になっていました。

 1897年から、資生堂薬局は高級化粧水「オイデルミン」を販売していました。その強みを生かし、景品としてソーダ水1杯につきオイデルミン1本をつけて販売したところ、来訪客が大幅に増えました。

 加えて当時の場所が、新橋の芸者衆が使う踊りの稽古場に近かったこともあり、彼女たちが休憩時間や帰りに立ち寄っていました。そのため、ハイカラな流行発信場所となっていました。

新橋色のアイスクリームソーダ(画像:資生堂パーラー)



 現在でも、銀座8丁目の資生堂パーラー サロン・ド・カフェ 銀座本店では、毎年5月に開催されている新橋花柳界のお祭り「東をどり」の期間中、限定のスペシャルメニューとして、「東をどりパフェ」「新橋色のアイスクリームソーダ」を提供しています。

 前者は抹茶などが使われ、飾りに番傘が付いています。また後者は、明治後期に新橋芸者衆の間で「新橋色」という青緑の着物がはやったことから、その色にちなんだアイスクリームソーダになっています。

 これらのメニューは同店で10月12日(火)から31日(日)まで提供されています。

芸者衆と客とで作る「お好み焼き」

 最後は「お好み焼き」です。なお、これには諸説あります。

 例えば『お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史』(新紀元社)によると、花街と戦前のお好み焼き屋は関連が深く、その理由のひとつに、戦前の東京にあったお好み焼き屋の主な顧客が、芸者衆や芸者見習いだったことが挙げられています。

『コムギ粉の食文化史』(画像:朝倉書店)



 また『コムギ粉の食文化史』(朝倉書店)によると、お好み焼きは、芸者衆とその客たちが好きなものを焼いて食べる遊び(遊戯)になっていたとのことです。さらに、お好み焼き屋は当時、

・見知らぬ男女が出会う場所
・男女が会うための場所

という意味合いもありました。

 永井荷風の作品をはじめとして、当時のさまざまな書籍でもそうしたことが分かる表現があります。民俗学者の池田彌三郎も、銀座の路地裏のお好み焼き屋が密会所となり、風俗営業として、取り締まりが行われるようになったと記述しています。

 江戸文化研究者の田中優子元法政大学総長は『芸者と遊び』のなかで、

「色気なしでは、花柳界という社交場は成立しないが、色が目的となっては、社交の場は失われる」

と述べています。

 先述のように、店でのお好み焼き作りが旦那衆と芸者衆との遊戯だったなら、芸者衆と旦那衆との社交と色の場のひとつとして、発展してきたのかもしれません。しかし現在のお好み焼き屋は学生も気軽に立ち寄れる場所であり、B級グルメの代表的存在のため、こうした光景は想像がつきません。

 諸説ありますが、江戸時代に露天で売られていたお好み焼きの前身(子どもの食べ物)が、昭和初期の花街とともに大人の食べ物へと変容してきたといえます。

現存する最古のお好み焼き屋は浅草に

 現存する最古のお好み焼き屋といわれている店は、浅草にあります。1937(昭和12)年に創業している「染太郎」(台東区西浅草)です。

台東区西浅草にある「染太郎」(画像:清水麻帆)



 当時、染太郎がある同じ路地には2軒のお好み焼きがあり、「お好み横丁」と呼ばれていました。染太郎の外観は井泉と同様、趣のある外観で、こうした物語を想像しながら食べるのも風情があります。

 今回、かつサンド、ソーダ水、お好み焼きの歴史を見てきましたが、芸者衆の存在や動向が食文化の流行に少なからず影響を及ぼしていたことがわかりました。現在は「食欲の秋」。そうした食文化の物語を感じれば、この季節をさらに堪能できます。

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