なぜ渋谷駅の地下商店街「しぶちか」には昔ながらの小さなお店が並んでいるのか?

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なぜ渋谷駅の地下商店街「しぶちか」には昔ながらの小さなお店が並んでいるのか?

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大居候

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渋谷駅地下にある渋谷地下商店街、通称「しぶちか」。7月のリニューアルオープンで再び注目を集めましたが、そもそもどのような経緯で作られたのでしょうか。フリーライターの大居候さんが解説します。

2021年7月にリニューアルした「しぶちか」

 渋谷のシンボルのひとつだった東急百貨店本店が2023年1月31日(火)に営業を終了し、跡地には新たな複合施設が建設される予定です。

 このように都心のあちこちで進められている再開発ですが、とりわけ注目されているのが渋谷です。これまでも新たな複合施設の誕生に加えて、東京メトロ銀座線ホームの移動など、さまざまな動きがありました。かつて想像された「未来都市」は、渋谷で現実のものとなるかもしれません。

渋谷駅構内図(画像:東急)



 そんななか、2020年に63年間の営業をいったん終え、2021年7月にリニューアルしたのが渋谷地下商店街、通称「しぶちか」です。しぶちかの始まりは1957(昭和32)年。以来、最先端の姿を見せる渋谷駅前広場の下にありながら、昭和のままの姿を維持していました。

 2坪ばかりの店舗は洋品店やかつらを売る店、喫煙具店など多種多様で、古くからの商店街そのままの風景がリニューアル後も続いています。

ヤミ市という原点

 そんな雑多な雰囲気の始まりは、終戦直後のヤミ市でした。

しぶちかのフロアマップ(画像:コネクテッドコマース)

 太平洋戦争末期の空襲で焼け野原になった渋谷には終戦とともにヤミ市が生まれます。空襲で店を焼かれた人や引き揚げ者、仕事を失った人たちが、それぞれに露店を出して何らかのものを売って、その日の糧を得ようとします。

 ヤミ市は渋谷以外にも新宿などさまざまなところに姿を現しますが、その最初期は文字通りのヤミ市、すなわちヤミで流れてきた商品が販売されているところでした。

 ヤミ市には当時、米や砂糖、たばこ、ゴム製品など、さまざまな出所不明の物品が出回りました。たばこなどの嗜好(しこう)品は、進駐軍の兵隊が売りにくることも当たり前でした。

 そんな混沌(こんとん)としたヤミ市が続いたのは、わずか数年でした。連合国軍総司令部(GHQ)は1949(昭和24)年8月、露店を翌1950年3月までに撤去する指令を出します。この時点で、東京都内の露店数は6000軒を越えていました。その結果、繁華街で半ば常設の市場となっていたヤミ市は姿を消していくことになります。

露店から地下街へ

 そうしたなかで、ヤミ市が盛んだった地域では行政と交渉し、場所を得て、商売の継続を求める動きが見られるようになります。代表的なものが秋葉原のガード下の店舗群ですが、渋谷区の場合は地下街として出発することになりました。

 露店から地下街への移転案は、資料によると渋谷区が提案し東京都から建設許可を得て進められた事業でした。

 東京都はGHQの指令を受けて、露天商に対し転業の場合は資金を貸し付け、移転して商売を継続する場合には代替地のあっせんなどを行いました。1950(昭和25)年6月の段階で、渋谷区では露店383軒のうち94人が転業、残留業者289人のうち靴磨きと代替地が決まった52人を除いた195人が、9月以降に露店での営業を禁止されたと資料には記されています。

 この代替地が渋谷地下商店街ですが、そこに加わることができなかった露店はどうなったのかも気になります。露店整理令の後、井の頭線のガード下には新たに露店ができていたという証言もあるため、どうも許可が曖昧なまま、露店の継続も一部見られたようです。

 ともあれ、渋谷区では区の発案で地下街を建設し、移転する案がまとまります。このとき、飲食店は地下ではなく、別に用意された土地へ移転することになり、現在も続く「のんべい横丁」が生まれることになります。

のんべい横丁(画像:写真AC)



 さて、露店の整理が行われたのは1950年ですが、この時点では、まだ地下街は影も形もありません。あくまで、これから建設する「予定」です。移転予定だった露店は、横浜市と交渉して野毛に一時移転して商売を続けます。

東急からの資金援助で「東洋一」に

 一方の地下街の計画ですが、当時は東京都はもちろんのこと、渋谷区も財政的に困難で資金を確保できませんでした。

 そこに、東京都の建設局長などを歴任し、戦災復興計画の立役者だった石川栄耀(歌舞伎町の都市計画立案でも名を残す人物)が妙案を出します。それは、大企業からの資金援助を受けて建設するというものです。

 渋谷で街づくりに資金を投入してくれる大企業といえば、東急です。

 当時の社長・五島慶太は幾度かの会合を経て、これにゴーサインを出しました。数々の東京の建設史に名を残す五島の時代ですから、地下街もまた大規模な計画となりました。広さは1400坪、かかった資金は約4億円で、当時は「東洋一の広さの地下街」とされました。

 こうした経緯もあり渋谷地下街は東急などが出資する渋谷地下街株式会社(渋谷区渋谷)の運営となっています。

渋谷地下街株式会社のウェブサイト(画像:渋谷地下街株式会社)



 また、東急はこの地下街の繁栄に欠かせませんでした。地下街が誕生した頃には、東急線やバスに乗って、地下街に買い物へ来る人も多かったといいます。とりわけ、東急の革新とともに地下街も栄えた事例とされるのは、1977(昭和52)年の新玉川線(現・田園都市線)の開通です。

 このとき、地下街は1か月休業して、冷暖房設備や照明を整えるリニューアルを実施、その開通とともに大盛況となったと記録されています。

 現在では名義変更などにより、ヤミ市の時代から続く店舗は少なくなりました。それでもなお、昭和の香りを残しつつリニューアルした地下街には独特の魅力が存在しています。

 今後の東急の店舗リニューアル、渋谷の再開発の進展で、地下街はどんな変化を見せていくのか、とても興味深いところです。

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