単なるお金持ちじゃない! 由緒ある都内高級住宅地「松濤園」「大山園」「清風園」に共通する4つの条件とは

東京都内の高級住宅地として歴史があり、かつて「松濤園」「大山園」「清風園」と呼ばれていたエリアをご存じでしょうか。ライターの春日ルナさんが解説します。


都内の高級住宅地といえばどこ?

 東京都内の高級住宅地と聞いて、日本の多くの人が思い浮かべるのは「田園調布」「成城」辺りでしょうか。

 確かに多くの豪邸が並び、その街並みには圧倒されます。しかし、都内に住んでいればほかにも高級住宅地を知っている人も多いでしょう。かつて

・松濤園
・大山園
・清風園

と呼ばれたエリアは、現在においても屋敷街を形成しています。どうしてこの三つのエリアが高級住宅地となったのでしょうか。今回はその謎に迫ります。

もとはお茶園だった「松濤」

 まず説明するのは、各住宅地の現在と歴史の概観です。

 渋谷区の松濤地域は、かつて「松濤園」と呼ばれていました。渋谷駅から徒歩10分ちょっと。文化村通りを上って東急百貨店本店(渋谷区道玄坂)にたどり着き、さらに先に進むと邸宅が徐々に姿を現します。

渋谷区松濤の街並み(画像:(C)Google)



 江戸時代、この地には紀州徳川家の下屋敷がありましたが、1876(明治9)年、旧佐賀藩主の鍋島家に譲渡されています。その際、11代当主の鍋島直大(なおひろ)が茶園を開き、旧士族たちに仕事を与えました。この茶園が「松濤園」です。そして、この茶園の名前が松濤の地名となったのです。

 現在、松濤には松濤美術館(松濤2)と戸栗美術館(松濤1)があります。佐賀の鍋島家といえば、高級磁器である鍋島焼を製造させた名家。また、佐賀藩の支配下にあった肥前国有田や伊万里は日本における磁器の代表的な産地として知られています。このふたつの美術館では貴重な陶磁器を見ることができます。松濤の発展は鍋島家とともにあるといえます。

 1923(大正12)年の関東大震災後に、鍋島家は土地を分譲。以後、松濤には住宅街が形成されてゆくこととなります。現在に至るまで多くの著名人が居を構えていましたが、当時住んでいた人として知られるのが、当時東京帝国大学の教授だった上野栄三郎氏。彼の飼っていた犬こそ、渋谷駅に銅像のある「忠犬ハチ公」ことハチです。

 分譲に伴って、1924年、鍋島家は涌水(ゆうすい)地のあった種畜牧場の一角を児童遊園として開放します。1932年(昭和7)年には、これを東京市に寄付(1934年4月からは渋谷区の管理)。また松濤は1928年、住所町名として採用されています。

 湧水池のある広大な鍋島侯爵邸は、太平洋戦争後の華族制度廃止で公園として整備され、現在では鍋島松涛公園(松濤2)となっています。お屋敷街を抜けたところにある心地よい公園で、都心近くとは思えない自然の恵みを感じ、豊かな気分になれる場所です。

徳川山と呼ばれていた「大山園」

 渋谷区の代々木上原は、千代田線が小田急線に乗り入れる高台の人気エリアです。代々木村から見て高い土地にあったため、「上の原(うえっぱら)」と呼ばれるようになりました。

 明治初期の頃、維新の三傑のひとりである木戸孝允が代々木上原の一角を農園として所有していました。このように代々木上原は牧場などが営まれる郊外の土地だったのです。まさに田舎といってもよいでしょう。また、ここに至るまではかなりの坂道。井の頭通りを歩くと、その上り坂具合がわかります。

渋谷区大山町の街並み(画像:(C)Google)



 代々木上原からほど近い場所にかつてあったお屋敷街が「大山園」です。1889(明治22)年、市制町村制が施行されると、代々幡村大字代々木字大山に住所変更。当時の土地所有者は外交官の青木周蔵でしたが、のちに付近一帯の地主であった鈴木善助が取得。

 鈴木は1913(大正2)年に和風庭園をあるじとした遊覧施設「大山園」をつくり、開放しました。それが地名「大山」が広く知られるきっかけになっています。

 また西原3丁目のあたりは、もともと紀州徳川家の子孫(政治家・実業家だった紀州徳川家第15代当主・徳川頼倫)が所有していたことから「徳川山」とも呼ばれました。

 高台にあったことで被害が少なく、その安全性が注目されました。1927(昭和2)年に小田急線が開通したことも後押しとなって、大山園から徳川山の不動産が分譲され始めます。そして、現在も多くの財界人の邸宅が立ち並ぶ高級住宅地が形成されました。

かつて大物政治家が集う町だった「清風園」

 最後に「清風園」を見てみましょう。清風園は、現在の世田谷区代沢にあたる地域です。なかでも、北沢川淡島の南斜面の上は格別だといいます。

 ここはもともと15~16世紀頃に北沢川周辺等で開墾が始まったことを契機に、集落の形成が進んだ農村地帯でした。代沢の地名が使われるようになったのは戦後、1964(昭和39)年のこと。「北沢」の一部と「代田」の飛び地であった「下代田」が統合してできた地域ということで、「代沢」という名が付きました。

世田谷区代沢の街並み(画像:(C)Google)



 邸宅と緑が織りなす風景が美しいということで、世田谷区が選定する「せたがや百景」にも選ばれている地域です。現在は、その伝統を売りにした高級マンションの建設・販売も進んでいます。

 この地域は、箱根土地株式会社が1928年に分譲を開始しました。もともとは勝田銀次郎という「三大船成り金」のひとり出会った人物が土地を所有していたところ、第1次世界大戦後の海運不況から勝田の会社は倒産。その処分品のひとつがこの土地だったのです。

「清風園分譲地」と名付けられたこの分譲地は、以後何人もの総理大臣経験者や文化人などの著名人が住み、一流の文化を形成してきました。

 少し先の下北沢は「文士村」として知られ、萩原朔太郎らが住んだことでも有名です。こうして、近い地域に政財界や文化界の著名人が集まることで、田畑にすぎなかった世田谷は、徐々にそのイメージを変化させてきたのかもしれません。

三つのお屋敷街をつなぐキーワード

 東京西部で住宅地に「園」が付く「松濤園」「大山園」「清風園」は特別なお屋敷街だといわれます。そして現在も、各界の著名人が居住し続け、新しく建設されるマンションには財を成した人々が集まってきます。それだけのネームバリューがあるのです。

 三つの「園」は

・都心にほど近い
・かつては田園風景が広がっていた
・名家の所有地だった
・関東大震災後に分譲された

という共通点を持ちます。そして東京が大都市になるにつれ、どんどん便利な場所に変わっていきました。

 しかし条例の規制などで、高級住宅地としての品位と適度な自然環境を保ち続けることができ、かつては新しい分譲地であったにもかかわらず、間もなく100年を迎える歴史ある土地となりつつあるのです。

 三つの園であった場所を歩いてみると、警備の人が常駐している邸宅なども時折目に入り、「要人のお宅だ」と思うこともしばしば。そして、都心からさほど離れていないのに静かな場所だということを感じます。

 100年続くお屋敷街。かつてここにあったお茶園や牧場で働いていた人々は、今のこうした姿を想像しうることがあったでしょうか。


【画像】明治初期の「松濤エリア」

画像ギャラリー

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