おむすび1日18個も食べて破門に 泣き虫お相撲さんの「倍返し」物語【連載】東京すたこら落語マップ(14)

落語と聞くと、なんとなく敷居が高いイメージがありませんか? いやいや、そんなことないんです。落語は笑えて、泣けて、感動できる庶民の文化。落語・伝統話芸ライターの櫻庭由紀子さんが江戸にまつわる話を毎回やさしく解説します。


とにかく食いしん坊な男が弟子入り

 粋で男っぷりが良い「江戸の三男」と言えば、「火消しの頭」に「与力」、そして「力士」。「一年を二十日で暮らす良い男」なんて歌われるほど、力士は今も昔も人気者です。

 今回は、江戸時代に実在した横綱・阿武松緑之助が登場する噺(はなし)「阿武松(おうのまつ)」で、板橋・巣鴨へとまいりましょう。

※ ※ ※

阿武松あらすじ

 京橋の観世新道、武隈文右衛門(たけくま ぶんえもん)という関取の部屋に、能登の国・鳳至群(ふげしぐん)七海村からやってきた男が弟子入りを志願したいという。名を長吉。なかなかよい体をしているので早速弟子入りとなり、小車(おぐるま)と名付けられた。

歌川国貞「阿武松と稲妻の取組」(画像:櫻庭由紀子)



 この小車が入ってきてからというもの、米の減りが早い。小車に聞いてみると、通常の食前に自分でこさえた赤ん坊の頭くらいのおむすびを17、8個も食べてしまうという。これにはおかみさんも肝をつぶした。

「ちょいと親方、このままじゃ部屋を食いつぶされちまうよ」

 雌鶏すすめて雄鶏時刻をつくる。親方は小車を呼び出した。

「昔から無芸大食といって、大飯食らいに碌(ろく)な奴はいない。暇をやるから国に帰れ」

 小車は、親方から一分の金をもらって破門となってしまった。

 一分の金をふところに入れて京橋を出た。国に帰るには中山道。板橋を越えて戸田の渡しまでやってきた。舟が来るまで待ってみたが、面目なくてこのまま国へは帰れない。

 このまま身投げしてしまおうか。しかし、ふところに入れた一分の金を川底に沈めてしまうというのももったいない。

「そうだ。この辺りの板橋ってところは宿場だ。ここの宿に泊まって、一分の飯をたらふく食って、明日またここに来て身を投げて死のう」

最後にたらふく飯を食いたい

 とって返して平尾の橘屋善兵衛の旅籠(はたご)を宿に決め、宿代に25銭を前払いし、残りで飯をもういいというだけ出してくれと頼んだ。

 女中も、面白い客が来たと飯を出していたが、お鉢を3度取り替えても継続中というのだからたまげた。帰ってきた宿の主に話をすると、こちらも驚きながらも「おかずが足りないだろうから、お菜を差し上げて。あたしも見学に行くから」と、大食い見物になる始末。

 宿の主が部屋に行ってみると、若い者が涙を流しながら飯を食べている。これは訳ありかと主が促してみると、「恥をお話しするようですが」と話し始めた。

「相撲取りになろうと、京橋の武隈文右衛門という親方に弟子入りして小車という名前をもらいましたが、大飯食う奴は相撲取りになれないから国へ帰れと、一分の金を持たされて暇を出されました。大飯で破門されたなんて、国にも帰れねえ。ならば、渡しの川に身を投げて死のうと思い、こうやって飯を食っております。1杯食べるごとに、寿命が縮まるってわけで……」

 話を聞いた主は、無類の相撲好き。この若者がこの旅籠に泊まったのも何かの縁だ。

「そりゃ気の毒な話だ。ってぇことは、あなたが相撲取りになったら死ななくて良いんでしょう。懇意にしている部屋があるから、お世話しようじゃないか。お前さんが一人前になるまで、月に5斗俵を2俵の米を仕送りしてあげよう」

 主は、根津七軒町の親方、錣山(しころやま)喜平次の名を伝えた。

「この人は、強くて情もある良い親方だ。人間ってのは、勇気を出さなくちゃならない。明日連れてってやるから、しっかりおやり」

「ありがとうございます……!」

 生きる希望が出てくると飯もおいしい。その晩はゆっくり枕についた。

ご恩忘れず、みるみる出世力士に

 あくる朝、宿の主に連れられて巣鴨の庚申塚、本郷追分けを通り、根津七軒町の親方、錣山親方の部屋に着いた。部屋のひいきの旦那だということで、すぐに中に通される。親方は、小さくなっている長吉を一目見て気に入った。

「お前さん、何が好きだ。ん? 酒も女も博打もやらない? それよりも飯が好き?」

 面食らう親方に、主が長吉に代わっていきさつを話した。

「あたしが月に5斗俵を2俵仕送りするんで、どうぞ世話をしてやってください」

「武隈関は勘違いをしてるようだな。相撲取りが飯を食えないなんてこたあ、あっちゃならねえ。にいさん、うちは飯の心配はいらねえよ。なんぼでも食ってくれ。旦那、仕送りの必要はありません。その代わり、この人が幕に入るようになった時に、印もんのひとつもこさえてくれたら結構です」

 錣山親方の温かい言葉に、長吉はまた涙。親方が前相撲をとっていた時の名前「小緑」をもらった。

「そりゃあ、ありがたいなあ。関取の出世名、小緑だ。しっかりおやんなさいよ!」
「へえ!」

 1815(文化12)年12月、麹町報恩寺の相撲番付に初めて名前が載り、序の口・スソから4枚目に小緑長吉、翌13年2月の芝西久八幡の番付に序の2段目、スソから24枚目と躍進。その間100日とたたない内、番付を60何枚と飛び越した古今に珍しい出世。

 いよいよの入幕は1822(文政5)年、蔵前八幡の大相撲だ。小緑あらため小柳長吉と改名し、初日、2日目、3日目と連勝。4日目の取り組みの中に、武隈と小柳があった。

「明日はお前の旧師匠、武隈関との割りが出たぞ。しっかり働け」
「明日の相撲にすべりましては、板橋の旦那に合わせる顔がございません」

 飯の敵・武隈文右衛門との取り組みは、双差しで小柳の勝ち。この取り組みが、長州侯のお目にとまった。阿武松緑之助と改名し六代目の横綱を張るという、出世力士のおめでたい噺。

ゆかりの地・板橋を巡る

●板橋宿

 中山道の、日本橋から最初の宿場です。東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、奥州街道・日光街道の千住宿とならび、「江戸四宿」のひとつとして栄えました。

 この辺りは武蔵国豊島郡下板橋村の一部ですが、朱引きにより「江戸」として扱われていました。

 板橋宿は、それぞれに名主が置かれた「上宿」「仲宿」「平尾宿」三つの宿場の総称です。平尾宿と仲宿の境目は観明寺付近。石神井川にかかる「距 日本橋二里二十五町三十三間」の道標がある「板橋」を渡れば上宿で、現在は板橋の本町商店街となっています。

 上宿の先には縁切り榎があり、そこから向こうは江戸の管轄外となっていました。

●縁切り榎

 榎大六天神のご神木。街道の目印として植えられていたといい、当時は樹齢数百年の大木でした。

板橋区本町の縁切り榎(画像:写真AC)



 その下を嫁入り・婿(むこ)入りの行列が通ると必ず離縁となると信じられ、徳川家に降嫁する五十宮(いそのみや)、楽宮(ささのみや)、和宮(かずのみや、親子内親王)は、皆この榎がある通りを避けて板橋本陣に入ったといわれています。

 現在でも、縁切りを願う人々の信仰を集めており、ひっそりとした境内には縁切りを願う絵馬がたくさん。かなり強力な効能だといううわさです。

『江戸名所図会』にも描かれた名所

●志村の一里塚

 日本橋から数えて3番目の一里塚。現在でも石垣と木(榎)の2基一対の塚が、ほぼ完全な形で当時の姿のまま残されており、国の史跡にも指定されています。

志村一里塚の遠景(画像:写真AC)



 志村の一里塚を後にしてさらに進むと、中山道で最初の難所とされた急勾配な清水坂に入ります。中山道中で唯一富士山が見える場所で、「右富士」と呼ばれていました。『江戸名所図会』にも描かれている名所です。

●中山道戸田の渡しの碑

 荒川には江戸防衛の意味から橋を架けることができませんでした。旅人が板橋宿を越えるには、船による渡しで次の蕨宿(わらび しゅく)へと向かいます。長吉が飛び込んでしまおうかと悩んだ場所が「戸田の渡し」です。

 埼玉県の戸田市側には、中山道戸田渡船場跡(埼玉県戸田市川岸)があります。

●巣鴨地蔵通り商店街

「おばあちゃんの原宿」とも呼ばれるこの商店街は、とげぬき地蔵でおなじみの高岩寺の参道です。昔ながらの商店が軒を連ねており、なぜか赤いパンツを売っている店がたくさん。

 とげぬき地蔵では、4のつく日には縁日があり、他にも耳かき売りや七味唐辛子売りなど、タイムスリップしたような境内。名物の幸福だんごは、シンプルなおいしさがしみる油味です。

 とげぬき地蔵を越えて商店街を行くと、「巣鴨の庚申塚」。昔はこの辺りに茶屋がでており、旅で疲れた足を休めにたくさんの人が訪れたといいます。

 この先には、東京で唯一の都電・荒川線(東京さくらトラム)の「庚申塚駅」があり、王子・町屋・三ノ輪、大塚・早稲田方面へ行くことができます。

意外と慎重派だった?史実にみる「阿武松」

 阿武松は、阿武松緑之助(おうのまつ みどりのすけ)といい、寛政年間の力士です。

 能登の国・鳳至郡七見村(現在の石川県鳳珠郡能登町)の生まれ。5尺7寸、36貫で色白で肥満型、技能優秀、温厚な人柄であったと伝えられています。

 大飯食らいで武隈部屋から追い出されたというのは落語と講談の中での話。もちろん遺恨試合もなかったそうです。

 1828(文政11)年、阿武松が38歳の時に吉田司家から横綱免許を授与されました。5代横綱・小野川喜三郎の引退以来、約30年ぶりの横綱就任です。この後7代横綱となった稲妻雷五郎と共に江戸時代後期の相撲黄金時代を築き上げました。

 阿武松の名は、長州(山口県)にある名所「阿武松原」から。力がこもると全身が真っ赤になったそうで、浮世絵にも赤身のある姿で描かれています。

 強くて大きく温厚な横綱・阿武松ですが、意外と立ち合いは慎重で「待った」が多い力士だったようです。町人たちの間でも、将棋などで「ちょっと待ってくれ」ということがあると、「阿武松じゃぁあるめえし」なんてことを言ったそうです。

江戸時代の相撲興行は1年で20日

 さて、力士のことを「一年を二十日で暮らす良い男」とあるとおり、江戸期の相撲興行は春10日と冬10日の20日間だけでした。

 とはいえ、当時の取組は現代の国技館などのように屋内というわけにはいきません。外で行うため晴天のみの興行です。

 10日を消化するにはなかなか大変だったようで、1813(文化10)年の浅草寺で行われた1月の春場所では、悪天候に加えて将軍の御成りや諸行事が重なり、千秋楽はなんと3月17日。3か月にも及ぶ興行が記録されています。

 最長記録は、1841(天保12)年の春場所。こちらは6月にようやっと千秋楽だったようです。

江戸の庶民娯楽、歌舞伎・寄席・相撲

 定期的に巡業が行われるようになったのは江戸中期の頃からで、歌舞伎や寄席と並ぶ一般庶民の娯楽でした。興行場所は、蔵前八幡、深川八幡、芝明神、神田明神などの神社仏閣でしたが、天明の頃より本所の回向院(現在の両国の回向院)が独占するようになりました。

 初代の国技館が建てられたのは1909(明治42)年。回向院の境内です。

 戦後の1950(昭和25)年から1984年の一時期は蔵前に移転となりましたが、蔵前国技館の老朽化に伴い「新国技館は相撲に縁のある回向院界隈で」の声があがり、1985年に現在の場所に国技館が完成。35年ぶりに両国に相撲が戻ってきたのでした。

 江戸時代の相撲は女人禁制。女性は観覧することができませんでした。それでも取組後のかっこいい力士を見たい女心。お店のおかみさんが、回向院の阿弥陀如来を見に行きたいと理由を付けて下男を回向院へ確認に走らせたところ、下男はすっかり心得ていて「ただいま回向院をお立ちでございます」と駆け戻ってきたという小噺(こばなし)が作られています。

「お相撲さんにはどこ見て惚れた 稽古帰りの乱れ髪」

 阿武松緑之助は、1835(天保6)年に引退。深川浄心寺に眠ります。郷土である石川県鳳珠郡能登町七見には「第6代横綱阿武松緑之助碑」があり、地方巡業の力士たちも必ず立ち寄るのだそうです。


【画像】お相撲さんの浮世絵

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