【鬼滅のグルメ】大正時代の浅草では、すでに子どもが自分の小遣いでカレーライスを食べていた!

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【鬼滅のグルメ】大正時代の浅草では、すでに子どもが自分の小遣いでカレーライスを食べていた!

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食文化史研究家

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10月10日(日)23時15分から、フジテレビ系列で『テレビアニメ「鬼滅の刃」無限列車編』が放送されます。これを記念して、『鬼滅の刃』と縁の深い浅草でかつて食されていたB級グルメについて、著書にカレーライス等の洋食の大衆化を描いた『串かつの戦前史』がある食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。

大正の子どもたちにも親しまれたカレー

 人気漫画『鬼滅の刃』。主人公の竈門炭治郎(かまど たんじろう)が一時期立ち寄った大正時代の浅草は、子どもの小遣いでも楽しめるB級グルメの聖地でした。

 例えば商店に奉公している小僧たちは、たまの休みになると路面電車で浅草にでかけ、映画(活動写真)を見て、安価な食べものを堪能しました。

「お小遣いを二十銭とか三十銭もらってね。大体行く所は浅草ですよ。かすりの着物に鳥打帽スタイルです。映画を見て食べて帰るんですが、まあ一銭でも安い所を探すわけですよ(中略)十銭のカレーライスとかね、カツレツとかフライなんかもあるんです」(台東区立下町風俗資料館編『古老がつづる下谷・浅草の明治・大正・昭和7』)

 これは1913(大正2)年生まれの長谷川太郎さんの少年時代の思い出です。大正時代の浅草では、子どもたちが小遣いでカレーを食べていました。

昔ながらのカレーのイメージ(画像:写真AC)



 初めてカレーを見た山育ちの炭治郎は、

「なんですかあの黄色いドロドロしたものは……」

と驚いたかもしれません。

屋台から始まった洋食の大衆化

「たまにはライスカレーもやった。八銭だった。これも目の前でカレーを温めて出してくれる。まことに楽しみで時々いったものだ。六年生になってからだ」(寺村紘二『浅草の小学生』)

 これは1906(明治39)年生まれの寺村紘二さんの思い出。浅草の小学生だった寺村さんが通っていたのは、屋台の洋食屋でした。

明治時代の洋食屋台。三谷一馬『明治物売図聚』(中公文庫)からの引用(画像:近代食文化研究会)

 初めて日本に登場した頃のカレーは、非常に高価な料理でした。1877(明治10)年の値段が12銭5厘。これはかけそば一杯の値段の約15倍ですから、今でいうと数千円はする値段です。

 1900年頃になると、寺村さんが通っていたような屋台の洋食屋が夜の東京に現れます。そこでのカレーの値段は5~8銭。かけそば3~4杯に相当する値段なので、高いとはいえ相当こなれてきました。

 屋台の洋食の値段が変わらない一方、かけそばなどの一般の物価は上昇していきました。寺村さんが8銭のカレーを食べていた頃のかけそばは5~6銭。屋台のカレーは、子どもの小遣いでも買える値段になっていたのです。

安い洋食屋の聖地だった浅草

「すなはち、さうしたはうばうの小さな店で(中略)ライスカレー(Curry and rice をさかさにいつたのである)だのを、メニューをたよりに、とつかへひつかへ食ったのが、ぼくの、洋食といふものの、味を知つたそもそもである」(久保田万太郎『町々・・・・・・人々・・・・・・』)

 1889(明治22)年に浅草で生まれた作家・久保田万太郎は、中学生の頃にカレーなどの洋食を食べ歩いていました。

 屋台ではなく、小さいながらも店舗形式の洋食屋です。その頃の浅草は東京でも屈指の安い洋食屋の聖地。中学生の小遣いでカレーを食べ歩くことが可能だったのです。

10月10日(日)23時15分から、フジテレビ系列で放送される『テレビアニメ「鬼滅の刃」無限列車編』の公式サイト(画像:(C)吾峠呼世晴/集英社・アニプレックス・ufotable)



 大正初期にヤマニバーという洋食屋が、洋食とともに和食も安く提供するようになります。すると、江戸時代から安い和食を提供していた縄のれんや一膳飯屋も、負けじとカレーなどの洋食をメニューに加えるようになります。

 焼き魚定食もあれば、カレーもトンカツもある。そんな和洋折衷の「大衆食堂」は、大正初期の浅草から生まれたのです。

当時のカレーは和牛味?

 浅草でもとびきり安い洋食屋に、三友軒という店がありました。ここで修行した人が創業したのが須田町食堂。現在、レストランやホテルを運営する聚楽(文京区湯島)です。

聚楽のウェブサイト。同社は現在、「須田町食堂」の名を復活させている(画像:聚楽)

 いったいなぜそんなに安く提供できるのか? 一流西洋料理店に勤めていたコックが、そんな興味を抱いて三友軒に転職したことがあります。

 彼が勤めていた一流西洋料理店では、イギリス流にバターで玉ねぎを炒めてカレーを作っていました。ところが三友軒では、値段の高いバターは使わずに、脂で小麦粉とカレー粉を香ばしく焙煎(ばいせん)して代用していたのです。

 その頃の洋食屋は、肉屋からタダ同然で入手できる牛脂を精製したヘットを使っていました。だからカレーの値段を安くできたのです。

 牛といってもその当時の大部分の牛は和牛です。私たちが和牛に感じるあの甘い独特の香りは、和牛香という牛脂に含まれる香り。つまり当時の安いカレーは、和牛の甘い香りがしていたのです。

 そしてこの、脂で小麦粉を香ばしく焙煎する手法は現在、ハウスやエスビー食品などのカレールーの製法に受け継がれています。

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