よくある農村だった「蒲田」を繁華街に大変身させたのは「ショウブの花」だった!

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よくある農村だった「蒲田」を繁華街に大変身させたのは「ショウブの花」だった!

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小川裕夫

フリーランスライター

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大田区の中心地・蒲田。かつては農村だった蒲田の都市化に貢献したのが、1903年にオープンした蒲田菖蒲園です。その歴史について、フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。

コロナ禍は身近な花に注目

 東京都・大阪府・京都府・兵庫県の4府県を対象地域にした緊急事態宣言が、4月25日(日)に発令されました。例年なら多くの人たちが行楽に出掛けるゴールデンウィーク期間でしたが、2020年につづき2021年も外出自粛が呼びかけられる事態になりました。

 2021年はサクラのシーズンにも外出自粛が呼びかけられました。サクラの名所では人が集まらないように花見が禁止に。花をめでる機会が少なくなっています。

 とはいえ、見て楽しむ花はサクラばかりではありません。チューリップやスイートピー、ツツジ、アジサイなど、5月から6月にかけて最盛期を迎える花もあります。例年はサクラばかりに目が行きがちですが、外出自粛で遠出をしにくい今、身近に咲いている花に目を向けてみる機会です。

 端午の節句には、健康を願って菖蒲(ショウブ)湯に入浴する習わしがありました。菖蒲湯の習わしは時代とともに薄れつつありますが、東京近郊ではゴールデンウィークが終わるとショウブが見頃を迎えます。

都内にある菖蒲園

 東京都内でショウブと言えば、堀切菖蒲園(葛飾区堀切)や小岩菖蒲園(江戸川区北小岩)などが有名スポットです。堀切も小岩も“ショウブエン”と読みますが、菖蒲はショウブと読む一方でアヤメとも読みます。

ショウブの花(画像:写真AC)



 同じ漢字を使いますが、ショウブとアヤメは別の花です。また、ハナショウブという花もあり、こちらも別の花です。花に詳しくなければ、それぞれを正確に見分けることは難しいのですが、見分けられなくても花を楽しむことはできます。

 いまや多くの人にめでられるようになったショウブ・アヤメ・ハナショウブですが、東京で人気が爆発するのは明治に入ってからです。そのきっかけをつくったのが、横浜植木という植物専門商社でした。

イギリス人に人気だったユリ

 幕末期、開国した日本には外国人が多く訪れるようになります。来日する外国人の目的はさまざまでしたが、貿易を目的に来日した商人は少なくありませんでした。

 特に産業革命によって覇権国家になったイギリスは、世界各国の珍しいものを買い集めました。イギリスは日本にも足を運ぶようになりましたが、特にバイヤーの興味が高かった珍品が植物でした。

 遠いイギリスから植物を求める商人、いわゆるプラントハンターと呼ばれるバイヤーが日本の植物を購入し、それを本国へと持ち帰って販売する。日本の植物のなかでも、外国人から1番人気だったのはユリです。

 ユリ人気に着目した鈴木卯(う)兵衛は横浜・東京・埼玉の植木職人に呼びかけて、植物を海外へと販売する専門商社を設立。これが横浜植木です。

横浜植木のウェブサイト(画像:横浜植木)



 横浜植木は、すぐにサンフランシスコ支店を開設するほどに事業規模を拡大します。そして、その後はニューヨーク支店、さらにロンドン支店をオープンさせるなど順調に海外への販路を広げていきました。

蒲田にできた菖蒲園

 こうして日本国内で栽培されていたユリやユリの球根は、海外でも評判を高めていきます。横浜植木はユリ貿易に満足することなく、次なるヒット商品を模索しました。そこで、ショウブに着目するのです。

 1897(明治30)年、横浜植木は磯子菖蒲園を開設。同園でショウブの研究や栽培が進められました。しかし、敷地が手狭だったことから、横浜植木はショウブ生産の新天地を蒲田へと求めます。

 現在の蒲田は大田区の中心地でもあり、多くの店が軒を連ねる繁華街です。しかし、当時は農村然とした地域でした。そのため、菖蒲園を開設できる広大な敷地があったのです。

1906(明治39)年測図の蒲田周辺の地図。「菖蒲園」の記載がある(画像:国土地理院)

 1903年、横浜植木は広大な蒲田菖蒲園をオープン。蒲田菖蒲園の広さは資料によってバラつきがあり、約1万坪(約3万3000平方メートル)とするものや約3万坪とするものもあります。いずれにしても、蒲田に広大な菖蒲園が誕生したことは間違いなく、それはたちまち評判を呼んで東京・横浜一円から多くの見物客が訪れる名所になったのです。

東海道本線の駅も解説

 現在、東京・横浜方面から蒲田へとアクセスするには京浜東北線の電車を利用するのが一般的です。しかし、まだ京浜東北線は運行されていません。また、当時は大田区ではなく蒲田区・大森区と別々の自治体でした。

 蒲田区と大森区は隣接していましたが、大森区の方が都心に近く、山王をはじめとする高級住宅街が形成されていました。そのため、大森駅は1876年に開業を果たしています。

 一方、農村然としていた蒲田は鉄道駅が開設されることはありませんでした。それが都市化を免れた要因でもありますが、蒲田菖蒲園がオープンすると、蒲田にも多くの人が押しかけるようになります。

現在の蒲田駅(画像:写真AC)



 蒲田菖蒲園へ足を運ぶ人たちの便を図るべく、1904年に東海道本線の駅として蒲田駅が開設。こうして、蒲田は少しずつ人が行き交うようになります。

 人が行き交うようになると、駅の周辺に飲食店などが立ち並びました。そして1920(大正9)年には、蒲田撮影所も開設されます。こうして蒲田は繁華街へと成長を遂げていったのです。

蒲田の発展に寄与した菖蒲園

 実は、蒲田の近くにはウメの名所もありました。現在も京浜急行電鉄の梅屋敷駅があり、線路沿いには跡地を整備した聖蹟(せいせき)蒲田梅屋敷公園(大田区蒲田)もあります。こうした史跡などからも、明治以前の蒲田周辺はウメの名所だったことがわかります。

大田区蒲田にある聖蹟蒲田梅屋敷公園の位置(画像:写真AC)

 ウメも人気が高い花ですが、ショウブの爆発的な人気は蒲田を大きく変えました。ショウブが、蒲田を繁華街にしたと言っても過言ではありません。

 蒲田の発展に寄与した菖蒲園は、蒲田の市街化に伴い閉園。その跡地はすでに宅地化されて、往時の面影を失っています。蒲田駅の近くを東西に流れる呑川に架かる菖蒲橋という、橋の名前に痕跡がかすかに残っているだけです。そのため、蒲田菖蒲園は忘れられた存在になっています。

 街のなかに、公園に、マンションの前の花壇に、そして歩道の植え込みに咲いている花にも知られざるドラマが隠れています。日常風景に溶け込んでいることから、普段は路傍の花を意識することはありません。

 遠出が難しい今、身の回りの花を楽しみ、思いをはせてみると新たな発見があるかもしれません。

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