かつて東京に非営利の「質屋」があった! 金利は低め、人情でお金を借りられた時代を振り返る

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かつて東京に非営利の「質屋」があった! 金利は低め、人情でお金を借りられた時代を振り返る

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星野正子

20世紀研究家

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かつて都内に、区役所が運営する「公益質屋」があったのをご存じでしょうか。いったいどのような質屋だったのでしょうか。20世紀研究家の星野正子さんが解説します。

自治体が運営していた「公益質屋」

 かつて庶民は急なお金が必要になると、質屋に駆け込んでいました。昭和の映画やドラマを見ると、タンスから着物を取り出して、ひと目を気にしながら質屋に入っていくシーンがよく描かれています。

 現在、白地に赤い文字で「質」と書かれた昔ながらの看板を掲げている都内の質屋は少なくなりました。また、その価値も変化し、今では不用なブランド品を買い取ってもらう存在となっています。

 そんな質屋の運営は民間というイメージが強いですが、かつては自治体も運営しており、都内では主に「公益質屋」と呼ばれていました。

 公益質屋は社会福祉事業の一環として制度化されたもので、営業質屋と呼ばれる一般の質屋よりも金利が低く、質流れまでの期間が長いなど、生活に困窮する社会的弱者の救済に主眼を置いたものでした。

 この制度は1912(大正元)年に宮崎県で始まったものが最初と言われています。その後、1927(昭和2)年に関連法が定められ、市町村および社会福祉法人が事業を担っていきます。東京都では一時期、都営の公益質屋も存在していました。

高度成長期を過ぎてもあった需要

 現代のようにクレジットカードや消費者金融が発達しておらず、支払いは現金が当たり前だった時代に、どうしても現金が必要なときの手段として公益質屋は定着していきます。なお、戦前は鍋や釜を持ち込んでくる人も多かったといいます。

 東京の公益質屋の最盛期は、終戦後から1964年東京オリンピックの頃まで、店舗数は40店を数えました。

質に入れられた時計のイメージ(画像:写真AC)



 練馬区では1952年、東京都から公益質屋が移管されています。この年の貸し付けは3545口でしたが、ピークの1956年は6230口に達しています。そして高度成長期を過ぎても、生活に困窮した人が頼る先として公益質屋はよく利用されていました。

 1981年発行の『練馬区史 現勢編』は区内の公益質屋の動向をよく分析しており、

「その半分以上が給与生活者でしめられていることは(昭和)二八年当時も現在も同じである」
「大都市での給与生活者や無職者の生活がいかに不安定かをものがたっている」

とし、質草(質に置く品物)にカメラやテープレコーダー、装身具などが増えていることについて、

「公益質屋創設当時から比べると、家具や装身具などのものはあるけれども貧しいという近年の世相を反映している」

と記しています。

 かなり痛烈な分析ですが、困ったときに気軽に頼れる役所の窓口として認識されていたことがわかります。

減少の背景にあった消費者金融

 しかし是非は別として、質草のいらない消費者金融の発展とともに公益質屋は需要を失い、次第に数を減らしていきます。

『朝日新聞』1996年9月5日付ではこの年に閉店した大田区蒲田の公益質屋を取材していますが、この時点で都内に残る公益質屋は6店舗だけになっていました。

 蒲田は地域性ゆえに需要があったのか、ピーク時には年間約1万4000口の貸し付けが行われていましたが、閉店時には年間800口程度まで減少していたといいます。

蒲田の公益質屋のあった大田区蒲田3丁目。1963年頃撮影(画像:国土地理院)

 その後、1999年には葛飾・港・台東・目黒区の4店まで減少しています。

関連法は2000年廃止

 公益質屋法は2000(平成12)年に廃止されました。言うまでもなく時代遅れのシステムとなっていましたが、なかには廃止時点で利用者の多い公益質屋もありました。

 目黒区の上目黒にあった公益質屋「ポーンショップ7」は、1999年時点でも年間に2000口の利用がありました。というのも目黒区の場合、廃止時点の年利は2%。もちろん質草は必要でしたが、現代の各種ローンと比べてはるかに低金利だったからです。

 かつ公益質屋本来の目的ゆえ、何らかの質草を持っていけば、いくらかは貸してもらえたのです(雨の日にさしてきた傘を置いていく人もいました)。

 それに「もう少し待ってください」と頭を下げれば、質流れを待ってもらえる人情が通用する場だったことも需要が衰えない理由だったようです。もっとも、なかには冷蔵庫を買うためにテレビを預けて、残業代で返すという人もいたといいます(『東京新聞』1999年5月4日付)。

目黒の公益質屋のあった目黒区上目黒。1963年頃撮影(画像:国土地理院)



 こうして少なくとも需要があったことから、公益質屋法の廃止には反対の声も上がりましたが、当時の厚生省は社会福祉の制度が充実していることを理由に廃止を選択。こうして、長きに渡った公益質屋制度は消滅することになりました。

 人情でお金を借りられた時代と現代と、東京の街はどちらが幸福なのでしょうか。

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