昭和の景観論争で注目 丸の内の象徴「東京海上日動ビル」が間もなく見納めに
2021年4月26日
知る!TOKYO戦後の日本を代表する建築家・前川國男。2023年をメドに新たな建物へと姿を変える予定の、その作品・東京海上日動ビルディングなどについて、フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。
戦後の日本を代表する建築家
前川國男(1905~1986年)は、戦後の日本を代表する建築家として知られています。前川はフランスの巨匠であるル・コルビュジエやアメリカ出身の建築家であるアントニン・レーモンドに学び国内のみならず世界にも名をとどろかせました。
前川が設計した建築物は各地に点在していますが、東京都に限定しても、
・東京文化会館(台東区上野公園)
・東京都美術館(同)
・国立国会図書館(千代田区永田町)
・紀伊國屋ビルディング(新宿区新宿)
・東京大学山上会館(文京区本郷)
などがあります。
そうそうたる前川建築の中でも世間に名前が知られているのが、東京海上日動ビルディング(千代田区丸の内)です。
同ビルは2004(平成16)年に東京海上火災保険と日動火災海上保険が合併して東京海上日動火災保険が誕生したことから建物の名称も変更されました。それまでは東京海上ビルディングという名称で、多くの人は東京海上ビルで記憶していることでしょう。
東京海上ビルの本館は1918(大正7)年に完成。東京五輪が終わり、日本が高度経済成長を迎えた頃には築50年以上ということで建て替えが検討されました。
立ちはだかった「100尺規制」
新しいビルを建設するにあたり、設計を任されたのが前川でした。安全性の観点から、それまでの建物は100尺(約30.3m)以上の高さで建設できないように法律で規制されていました。

しかし、建築技術・資材の向上は目覚ましく、耐震性や耐火性の観点からも百尺規制は時代にそぐわないと考えられるようになっていました。実際、100尺という規制があっても特例的に100尺以上の建築物が許可され、特に耐震性や耐火性で問題になっていなかったのです。
土地を効率的に利用するという観点も建物の高層化を後押ししました。
1964(昭和39)年の東京五輪を前に高層ビルの建築ラッシュが起きると、1961年には特定街区制度が、1963年には容積地区制度が創設。100尺規制は段階的に緩和されていったのです。
これらの制度が導入されたことで、100尺という高さ制限から容積率という新たな指標が設けられました。
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