観光地化で弊害も 深刻な水不足と戦った伊豆諸島「式根島」の歴史とは
2021年3月28日
知る!TOKYO伊豆諸島北部にある周囲約12kmの式根島は長年、水不足に悩まされていました。その困難と奮闘の歴史について、フリーライターの県庁坂のぼるさんが解説します。
伊豆諸島に伝わる「水配り神話」
東京都の島しょ部である伊豆諸島は、
・大島
・利島
・新島
・式根島
・神津島
・三宅島
・御蔵島
・八丈島
・青ヶ島
の9島から成っており、出雲大社の祭神・大国主命(おおくにぬしのみこと)の子、事代主命(ことしろぬしのみこと)によってつくられたという神話が残っています。
島々がつくられた後、事代主命は神津島にある天上山山頂の大きな窪地・不入ガ沢(はいらないがさわ)に島の神様を集めることにしました。この頃、不入が沢には満々と水をたたえた池があり、そこで島ごとの水の分配を相談することになったのです。
ところが、なかなか会議がまとまらなかったために翌日、先着順で水の量を決めることになります。翌朝、最初に来たのは御蔵島の神様で、続いて新島・八丈島・三宅島・大島の順で神様がやってきました。
利島の神様は寝坊してしまい、ようやくやってきたら既に水はほとんど残っていませんでした。怒った神様は暴れて不入が沢の池に飛び込み、神津島では水が飛び散ったところから湧き水がでるようになりました。一方、利島は水で苦労するようになったといいます。この話は「水配り神話」という伝承として、今でも語り継がれています。
水に苦労した式根島
さて、伊豆諸島の各島は
・水に苦労した島
・水に苦労しなかった島
に分けられ、苦労した島では雨水をためて利用するのが当たり前となっていました。現在は無人島になっている八丈小島は風土病「マレー糸状虫症」の有病地でしたが、原因は水不足にあり、わずかな湧き水や雨水をおけにためて使用していたためでした。
伊豆諸島北部にある式根島も、水に苦労した島のひとつです。
式根島は新島に近く、古くから風待ち(風や雨が激しくなったときに船が避難する場所)や漁場、温泉などが利用されていましたが、水を得るのが困難なため、定住者はいませんでした。

式根島に人が住むようになったのは、明治時代になってからのことです。
明治時代の伊豆諸島の帰属は最終的に東京府に確定するまで、韮山県、足利県、静岡県と紆余(うよ)曲折を続けました。どこの管区地域か曖昧ななか、新島に住む人たちは生活のために利用していた、隣接する式根島が新島に帰属していることを静岡県に嘆願します。その帰属を認める条件となったのは、式根島の開拓でした。
こうして東京府への移管後、1887(明治20)年から式根島の開拓が始まりました。

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