まるで外国? 日本最大・最強の石造集落は伊豆諸島「新島」にあった
東京から約160km南に位置する新島の本村地区は、数多くの石造集落が存在しています。そのヒントとなるのがコーガ石。いったい何でしょうか。紀行作家の斎藤潤さんが解説します。東京から約160km南にある新島 伊豆諸島のひとつで、東京から約160km南に位置する新島(東京都新島村)の本村(ほんそん)地区は、「日本最大にして最強の石造集落」である――。こう言い切ると、首をかしげる人も多いと思います。特に、新島に行ったことがある人ほど、不思議な思いをするのではないでしょうか。 「石造りの建物なんて、どこにそんなにたくさんあるんだ!」 そんな不満の声が聞こえてきそうです。 確かにヨーロッパの古い町のような石造りの家々を思い浮かべると、新島にはそれらしい重厚な建物は見当たりません。 観光客の目にまず入ってくる石と言えば、モヤイ像です。軽く柔らかそうな石でつくられたユニークな彫刻が、島のいたるところで出迎えてくれます。モヤイ像は渋谷駅にもあるので、それなら見たことがある人もいるでしょう。 集落内の建物に使われている天然石の正体 新島本村の集落をもう少し注意深く観察すると、ブロック塀やブロックを使った建物がたくさんあることに気づくでしょう。そうなんです。一見ブロックのようだけれど、実はどれも新島で採れたコーガ石という天然石なのです。 コーガ石の建物(画像:斎藤潤) 自然の産物なので、ブロックのように見えても色やきめや、かすかな模様などが、微妙に異なっています。場所によっては、ほぼ同じものをそろえていますが、わざと違いを際立たせるような使い方をしている箇所もあって、一度気になりだすと差異を探すのが面白くなり、いつの間にか引き込まれています。 コーガ石は岩石としての正式名は黒雲母流紋岩(くろうんも りゅうもんがん)といい、世界でも新島とイタリアのリパリ島だけでしか産出しない、極めて貴重な石です。 小さな気泡を含んだガラス質の石でとても軽いため、島では軽石と言われていました。また今は採れなくなってしまいましたが、昔は比重が0.8程度の、水に浮かぶものも取れたので、浮かぶ石を略して「かぶ石」とも呼ばれていました。 江戸時代から採掘されていたコーガ石江戸時代から採掘されていたコーガ石 かつて、新島村産業観光課にコーガ石事業係という部署があったほど、採石業が栄えていたことがあります。当時の担当者によれば、 「建築用材としては、昭和40年代がピークでした。石材の生産量は1969(昭和44)、1970年には、40万才(長さ50m×幅25mのオリンピックサイズ・プール約4.5杯分)を超えています。その後経営的に苦しくなったため村は採石業から撤退し、民間に任せるようになりました」 石材に使う「才」という単位は、1立方尺。おおよそ一辺30cmの立方体になります。最大の売上額は、1975年の1億9000万円でした。ただし長い歴史を見ると、本当の全盛期は1930年から1935年頃で、毎年40万才から50万才も切り出し、遠くは朝鮮・台湾・満州などにも輸出していたそうです。 有形登録文化財になっている総コーガ石造りの外便所(画像:斎藤潤)『抗火石沿革誌』によれば、石切の賃金を記した1782(天明2)年の文書があり、すでにコーガ石が採掘されていたことがうかがえます。しかし、当時は搬出が困難でごく一部の人だけが利用していたようです。1870(明治3)年の大火以降、石倉がつくられるようになりましたが、家を建てる人はほとんどいませんでした。 1887年の東京府工芸品共進会に島から出品したコーガ石製品は、竈(かまど)、七輪(しちりん)、焜炉(こんろ)、火消し壺(つぼ)などで、どれも、耐火・耐熱性に着目した製品ばかり。そのため、火に強いという特長を強調して、抗火石と表記されることもあります。 1919(大正8)年、源商店がコーガ石の粉砕粒を利用してつくった170tのコンクリート船は、関東大震災のときに避難船として活躍したそうです。 コンクリートの船なんてあるのかと思う人もいるでしょうが、かつては世界各国でつくられていました。コンクリートより重たい鉄の船が今も主流であることを考えれば、コンクリート船も不思議ではありません。 化学工業の発達によって硫安(硫酸が原料の肥料)や硝煙火薬(硝酸が原料)が大量生産されるようになると、コーガ石の優れた耐酸性が注目されて需要が急増し、1930年から1 935年にかけて全盛期を迎えたのです。 2016年に保全プロジェクトが発足2016年に保全プロジェクトが発足 ところで、日本最大の石造集落になったのは、昭和40年代に巻き起こった民宿ブームの結果でした。島の人たちみんなが、競ってコーガ石の建物を新築したのです。だから、日本最大規模になってから、まだ50年ほどということになります。 近年は建築材として使える良質の石材が枯渇し、廃屋の古材を使いまわすか、庭先に保存されている石材を使うしかありません。新築というより、コーガ石を活用したリフォームです。ただ、コーガ石を原料にしたタイルをつくるなど、有効活用は続いています。 コーガ石(下)と加工に使う道具(画像:斎藤潤) 十数年前、私(斎藤潤、紀行作家)が世界でも希少なコーガ石に興味を持ち、島の人たちにもっと大切にすべきと話したところ、大半の人はけげんな表情をするだけでした。ところが、この数年地元でコーガ石の魅力を見直す動きが加速してきたのです。 2016年の秋に空き家の流通とコーガ石建築物の保全、島の文化継承を目的にした「新島オイギー」プロジェクトが立ち上がりました。オイギーとは島の言葉で「俺の家」という意味です。 活動内容を報告したり、コーガ石の魅力をもっと知ってもらったりするため「オイギーニュース」という新聞を発行。また、ほぼ同じメンバーがつくっている新島をディープに味わうカルチャーマガジン『にいじまぐ』の創刊号は、「新島って、ロックだ!」という特集を組み、コーガ石を徹底紹介しています。 2017年4月には、コーガ石の建物を売りにした宿「新島ホステルナブラ」(現在は不定期営業中)もオープンしました。かつては民宿で、それ以前は島で唯一の映画館だった建物を、生き返らせたのです。室内に入ると、壁のモルタルをわざと剥がして、コーガ石の地肌を露出させているのに気づくでしょう。 旅行者は「外国へ来たみたい」旅行者は「外国へ来たみたい」 オーナーの梅田久美さんに、理由を聞いてみました。 「コーガ石を表に出したかったんです。この建物が、石でできていることを知ってほしかった。また、コーガ石の加工性のよさも感じてもらいたかったんです」 これを見た宿泊者たちは「石の建物なんて、外国へ来たみたい」などと、喜ぶ人が多いそうです。新島生まれの梅田さんにとって、コーガ石はごくありふれたものでした。 しかし、火山や建築に興味を抱くようになり、見知らぬ土地の集落を見るにつけ、新島本村集落の特異性に引かれるようになっていったといいます。 また、梅田さんも参加している新島抗火石建造物調査会は、2019年の台風で大きなダメージを受けた「まるまさ」(屋号)の建物を復元する予定だそうです。 「復元して、文化財指定を目指しています」。 あらめて、コーガ石でつくられたものたちを並べてみましょう。古いものでは、江戸時代の流人の墓石。酒だる(飲んべえ)やサイコロ(賭博好き)の形をしているのは、島で亡くなった流人が好きだったものをかたどっているから。 飲んべえな流人の墓標もコーガ石(画像:斎藤潤) 参道の敷石、鳥居、石垣、石燈籠、こま犬、小さな祠(ほこら)、そして、社殿も屋根板、壁、欄干まで、総コーガ石造りの神社と言っても過言でないものまであります。 雨水の貯水槽、井戸、豚舎。もちろん、住宅、倉庫、塀は、いたるところコーガ石。中には、前田家住宅外便所のように、独立した便所の建物が、国の登録有形文化財になっている例もあります。便所単体が文化財というのは、極めて珍しいケースでしょう。 店の看板、道端の休憩所、大きな工場、博物館、商工会館、ガラスアートセンターの一部、屋外に点在するオブジェ、湯の浜露天温泉の脱衣場も浴槽もギリシアの遺跡風の円柱までどれもこれも、近年つくられたものにもコーガ石が使われています。一番初めに最強の石造集落と書いたのは、これだけコーガ石が多用されているからです。 ちなみに、オリーブグリーンの新島ガラスの主原料も、コーガ石の粉。そして、美しい白砂の浜が続く、サーフィンの中心地・羽伏浦もコーガ石が砕けた砂からできています。 銀座でも見られるコーガ石銀座でも見られるコーガ石 現在の新島の形ができたのは、地質学的にはつい最近の886(仁和2)年。海底噴火によって、良質なコーガ石の産地である向山や本村がある平野部が形つくられたのです。 新島は、北部の一部を除いて、すべてコーガ石です。そう考えると、新島そのものが、地球の生んだコーガ石最大の作品と言えるかもしれません。 ここまで読んで、コーガ石建築に興味を持ったけれど、新島まで行くのは大変だと思った人にお勧めのスポットがあります。 日本最古の現役ビヤホールと言われる「ビヤホールライオン銀座七丁目店」(中央区銀座)です。1階のホールで見上げる天井は、すべてコーガ石。人々のざわめきがこもりがちな場所なので、コーガ石の吸音効果を期待して使われたようです。 ビヤホールライオン銀座七丁目店のコーガ石が張り詰められた天井(画像:斎藤潤) 長い歳月がたつうちにすっかり黒ずみ、風格を感じさせるたたずまいになっています。新島のコーガ石を眺めながら、おいしいビールや料理を楽しんではどうでしょうか。
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