空がとても広かった池上線ホームの光景
山手線の南東部から、城南へと走る東急線の各路線。そのなかでも個人的に愛着が湧くのは東急池上線(以下、池上線)です。
近年、戸越銀座駅がスタイリッシュな木造ホームになったり、旗の台駅が急行停車駅になったりなど、時代に合わせて変化しているのもグッときます。
しかし正直なところ、21世紀に入るまで「池上線、大丈夫?」といったような雰囲気が漂っていたのは避けられない事実でしょう。
ターミナルとなる五反田駅の山手線ホームからの接続は階段のみで、階段を上った先にあるのは、なんと有人改札。
都内の鉄道駅の多くが自動改札機になった頃でもなお、池上線のホームでは駅員さんがカチャカチャと切符切りの音を鳴らしていたのです。ある意味、レアな光景でした。
そして初めての人はホームに出ると、誰しもこう思ったはず。
「なんでこんなに高い位置にあるんだよ……」
五反田駅周辺が再開発されるまで、駅周辺は古びた低層の建物が並んでいたこともあり、当時、池上線ホームの周囲は空がとても広かったのです。
この光景を見るたびに、「戦後がまだ残っているな~」と筆者(大居候。フリーライター)は感じていました。
難航した完成までの道のり
そんな池上線ですが、五反田駅はなぜあれほどまでに高い位置にあるのでしょうか。
原因は、池上線の完成までの道のりにあります。
もともと、池上線は1917(大正6)年に設立された池上電気鉄道(池上電鉄)に始まります。
設立の目的は、池上本門寺(大田区池上)や洗足池(同区南千束)にやってくる観光客でした。
もともと計画された路線は目黒~大森間でしたが、用地買収が難航。
そこで「支線」として蒲田~池上間の工事を行い、ひとまず開通させたのです。
その後も計画は難航します。
目的地であるはずの目黒に、まったく到達しそうもなかったのです。
1923年には雪ヶ谷駅(現・雪が谷大塚駅)になんとか到達するも、計画は進みませんでした。
路線の全通は1928年6月
そうした状況下で、池上電鉄は1923年に東京川崎財閥の傘下に入ります。
ところがこの年に東急の前身である目黒蒲田電鉄が、路線の大半が被る目蒲(めかま)線を開通させます。
そこで池上電鉄は当初の計画を捨て、五反田駅を目指すことになりました。
その後、池上電鉄は1934(昭和9)年に目蒲電鉄に吸収され、現在の東急電鉄(渋谷区神泉町)の基礎となったわけです。
おおらかな時代だったのか、半ば無計画のような感じで建設された池上線が全通したのは1928年6月のことでした。
山手線を越える計画もあった
最後に残った大崎広小路駅から五反田駅に向かう線路には住宅が密集。高架線を引くために工事は難航しました。
また当時は、山手線を越えて東側に行けるような高さを計画していました。
理由は当初予定していた目黒駅との接続が果たせなかったため、乗客がより増えることを念頭に置いていたためでした。
そこで鍵になったのが、京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)が計画していた青山線です。
青山線とは、品川駅方面から白金、青山をぐるりと回るようにしながら、千駄ヶ谷方面へ向かう計画路線。池上線は、青山線と白金付近で接続することを計画していたわけです。
しかし計画は残念ながら実現はしませんでした。その結果残されたのが、高い池上線のホームだったというわけです。
ただ、都心への延伸計画は戦後にも浮上しており、都営三田線と池上線を接続する案も存在していました。
独特の沿線風景は延伸しなかったおかげ?
これらの計画が実現していれば、沿線の品川区や大田区の風景もガラリと変わっていたでしょう。
都心に乗り入れる電車のため、3両編成というわけにはいきません。
長大な編成の列車が走り、「昔の池上線は3両しかなかった」といったような思い出話をしていたかもしれません。
ただ、市街地化が既に進んでいた沿線で長大なホームも造るためには、完成に何年かかったのかと、つい考えてしまいます。
こうして夢破れた池上線ですが、結果としてあの独特の沿線風景を見せてくれているのですから、歴史というのはなんとも不思議なものです。
全線わずか10kmあまり――ちょっと気分転換したいけれど、遠くに行く余裕がないときに乗ってみたい電車。それが筆者の池上線への思いです。