上野近くの一角にいまだ残る60年前の記憶、「吉展ちゃん事件」の現場を歩く
今から約60年前、東京オリンピックを1年後にひかえた1963年に起こった「吉展ちゃん事件」。その現場となった公園などをルポライターの八木澤高明さんが歩きます。「吉展ちゃん事件」を知っていますか? 東京台東区の下谷エリア。昔ながらの雑居ビルや住宅の間には、最近建てられたと思われるマンションがそびえていて、さまざまな建物からは、昭和から令和へと時代の流れを感じさせます。そんな地区の一角に、東京オリンピックを1年後にひかえた1963(昭和38)年に発生した「吉展(よしのぶ)ちゃん事件」の現場となった公園があります。 「吉展ちゃん事件」の現場となった公園(画像:八木澤高明) 昼下がりの公園には、母親に見守られ遊ぶ子どもたちの姿があり、元気な声が響いています。 公園西側の入口にはトイレがありますが、吉展ちゃんが犯人の小原保(こはら たもつ)に連れ去られた場所になります。吉展ちゃんは、水鉄砲で遊んでいて、公園のトイレで水を入れようとしいていたところ、小原に声をかけられ連れ去られたのでした。 犯人の小原は福島県石川町で生まれ育ちました。農家の出身で小学校4年生の時に足の傷口から細菌が入ったことにより、骨髄炎になってしまいました。二度にわたる手術にもかかわらず、片足が不自由になるというハンデキャップを背負ってしまいます。 その後、小原は足の不自由さを同級生から馬鹿にされるようになり、時をほぼ同じくして学校の通信簿には盗み癖を指摘されるようになったのです。足の怪我により小原の人生に暗い陰がさしはじめました。 「あの事件さえなければ普通に暮らしていた」 私はかつて小原の生まれ故郷を訪ねたことがありますが、近所に暮らす男性は小原のことをこのように言いました。 「足の怪我は冬に田に水を張って、ケガをしたことからなったんじゃねぇかなぁ。時計の職人になって須賀川に行くまでは、いい兄貴分だったよ。あの事件さえなければ普通に暮らしていたんだろうな」 小原の父親は足が不自由な小原の将来を憂い、手先で仕事ができる時計職人にしたのでした。須賀川で修行した後、東京に出て来た小原でしたが、仕事に行き詰り借金を重ね、思いついたのが、誘拐だったのです。 短歌から浮かぶ、犯人の贖罪の念短歌から浮かぶ、犯人の贖罪の念 吉展ちゃんを連れ去ると、その日のうちに円通寺(荒川区南千住)で首を絞めて殺めてしまいます。誘拐の途中、一度は吉展ちゃんを返そうかと逡巡しますが、足を引きずっているのを見られ、自分のことを特定されてしまったと思い、手を掛けてしまったのでした。 吉展ちゃんの遺体が発見された円通寺墓地(画像:八木澤高明) 吉展ちゃんが殺された円通寺へ向かいました。寺の墓地へと足を運んでみると、墓石の群れの中に小さな地蔵が置かれていました。寺の僧侶によれば、そこが吉展ちゃんの遺体が発見された場所だそうです。 1971(昭和46)年12月23日(木)、小原は38歳の時に宮城刑務所で刑を執行され、刑場の露と消えました。1963年に逮捕されてから、彼は拘置所の中で「土偶の会」という短歌のグループに在籍し、短歌に親しみました。 幼い時に足にハンデを負い、満足に学校に通わなくなり、10代で時計職人となり、文学に向かい合ったのは、拘置所での生活が初めてのことだったのかもしれません。小原は福島誠一の名で数々の短歌の作品を残しています。 ・みづからを浄(きよ)む如く拭きみがく便壼(べんこ)獄の燈にひかるまで ・亡き母の呼ばふ声かと思はるる秋をしみじみ鳴く虫の音は ・晩成と云はれし手相刑の死の近きに思ふ愚かさもあり ・明日の死を前にひたすら打ちつづく鼓動を指に聴きつつ眠る 最後の歌は、刑執行の前日に読んだ辞世の歌になります。これらの短歌からは、罪を犯したものの改心しようとした小原の人間性が伝わってくるように思えてなりません。取り調べで彼を自白させた昭和の名刑事・平塚八兵衛にも「真人間になって死んで行きます」という言葉を残しました。
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