バブルの残り香漂う90年代、若い女子高生たちが銀座に連日集結していたワケ

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バブルの残り香漂う90年代、若い女子高生たちが銀座に連日集結していたワケ

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星野正子

20世紀研究家

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バブル経済の余韻が残る1994年、銀座に突如として女子高生の集団が現れました。いったいなぜでしょうか。20世紀研究家の星野正子さんが解説します。

オープンは1994年3月

 1990年代の東京で女子高生が集う街といえば、もちろん渋谷でした。ところが、そんな彼女たちが銀座にも大集結していたのを、皆さんは覚えているでしょうか。

東京メトロ「銀座駅」(画像:写真AC)



 大人が遊ぶ街だった銀座に女子高生たちが集結する――。そんな奇妙な事態が注目されたのは、1994(平成6)年のこと。この年の3月、吉本興業(大阪市)が運営する「銀座7丁目劇場」がオープンしたのです。

 吉本興業の中邨(なかむら)秀雄社長(当時)が銀座の東芝銀座セブンビルにテナントとして入り、常打ち(じょううち。決まった芸能などを、決まった場所で興行すること)の劇場をオープンすると発表したのは、その年の正月明け、1月4日(火)でした。

 このことは、高級感で売っていた銀座の大きな転機として受け止められました。

 1992年には洋服の青山が「日本一高い地価の銀座で、日本一安いスーツを」の触れ込みで進出し、それに次ぐ衝撃となりました。

オープン初日は前売り券600枚が完売

 東芝銀座セブンビルにあった東芝ホールを改造した劇場は、客席数138席。ダウンタウンが巣立ったことで知られる、心斎橋2丁目劇場(1999年3月閉館)とほぼ同規模です。

吉本興業が運営していた銀座7丁目劇場。1994年12月15日撮影(画像:時事)

 劇場では公演を毎日行い、目的も若手芸人の育成だったため、客層も当然10代の若者が多く、それが銀座の雰囲気をガラリと変えていくのではないかと、期待と不安の両面で見られていたのです。

 オープン前のチラシには、漫画家の赤塚不二夫がイメージキャラクターを描き、「本当は東京、好きなんですわ」のキャッチコピーも載せられました。

 3月28日(月)にオープン初日には、1枚1500円の前売り券600枚が完売。客席のほとんどは、若手芸人のファンである中高生の女の子たちで埋まりました。

多くの大物芸人を輩出

 毎日行われているのは、公演だけではありませんでした。

 夕方のバラエティー番組『銀BURA天国』(テレビ東京系)では、公開生放送が毎日行われ。またラジオ番組『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)でも『ラジオ7丁目劇場』のコーナーが持たれるほどの盛り上がりを見せました。

 ビルの建て替えによる影響で劇場の歴史は1999(平成11)年までと、わずか5年ほどでした。しかしその間は吉本興業の東京進出の拠点としてにぎわい、多くの芸人を輩出しました。

極楽とんぼ(画像:吉本興業)



 極楽とんぼ、ロンドンブーツ1号2号、ペナルティなど、ここを出発点に才能が開花していった芸人は本当に多かったのです。

当時残っていたバブルの余韻

 さて、この劇場が日本のお笑いの歴史に大きな影響を与えたのは、今でも語られていますが、前述の通り、銀座の街に女子高生は実際に増えたのでしょうか?

 これは本当です。

 劇場があったのは、現在の「ZARA 銀座店」(中央区銀座7)がある場所。21世紀になって大衆化が著しくなった銀座ですが、1990年代はまだバブル経済の余韻で高級路線がもっと色濃く残っていました。

左手にZARA銀座店とビヤホールライオン銀座七丁目店(画像:(C)Google)

 余談ですが、劇場閉館後に東芝銀座セブンビルを建て替える際、隣の「ビヤホールライオン 銀座七丁目店」も一緒に高層ビルにする案があったようです。

 そんな街に詰めかける女子高生。

 コアなファンの目当ては、これからブレークしそうな芸人です。『吉本印天然素材』よりも『WA CHA CHA LIVE』、すなわちテレビに出るまでもう一歩の芸人です。

 いわば追っかけですから女子高生の熱量も高く、整理券をもらうために朝5時から並び、そのまま入り待ちで昼まで動かなかったという話もあります。

劇場前は常に「女子高の教室」状態

 筆者(星野正子。20世紀研究家)がしたり顔で語らなくても、追っかけの熱量の高さはご存じの通り。チケットが取れなくても、入り待ち・出待ちは当然で、その間は近くのファストフードなどで時間つぶし。

 女子高生も当時は「銀座価格」がわかっておらず、レストランに入って値段にびっくり。「ライスだけでいいですか?」と注文したことがあったという話も。

 出待ちは時刻も当然遅くなりますし、仕事帰りに社会人も駆けつけます。そのため劇場前の路上は、ほぼ毎日のように100人超の女性たちで埋め尽くされていました。

 ようするに、近年話題になったインバウンドの「爆買い団体」のような感じで、女性だけの集団が銀座中央通りの一角を埋め尽くしていたのです。それはなかなかの壮観だったようです。

 当時の資料を読むと、「女子高の教室状態」といった興味深い表現が並んでいます。なお、彼女たちは隣近所の店に気を遣って、マナーは結構よかったそうです。

現在の銀座の様子(画像:写真AC)



 この女子高生の波が、銀座にもたらした変化は大きいでしょう。

 1990年代、まだ銀座は出掛けるだけで緊張する街でした。しかし今の銀座は、高級な雰囲気を手軽に楽しめる「大人の街」といった印象です。

 そんな「いい感じの大衆化」をもたらしてくれたのが、彼女たちであることは間違いありません。あの頃、入り待ち・出待ちしていた彼女たちはどうしているのでしょうか。案外、堅実な人生を送っているのかな?

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