町屋駅から尾竹橋通りを南下した辺り
筆者(業平橋渉。都内探検家)はなぜか、道路や線路などで三角形に囲まれた「三角形ゾーン」に心を引かれてしまいます。
どう見ても使い勝手は決してよくありませんが、そんな形になってしまった背景には、きっとなにか理由があるに違いありません。
さて、今回の「三角形ゾーン」は荒川区にあります。
場所は町屋駅の近く。京成線の町屋駅方面から尾竹橋通りを三河島駅方面に少し歩いたところといえば、わかりやすいでしょうか。
町屋駅近くの「三角形ゾーン」(画像:(C)Google)
2本の道路が交差し、ものすごい鋭角になっています。実際に行ってみると高架の上を京成線が走っているので、なかなか迫力があります。
ちなみにGoogleマップで見ると、地下を走っている千代田線が同じレイヤーに描かれているので、不思議な感じです。
いったいどういう都合で、こんな「三角形ゾーン」になったのでしょうか。早速古い地図を見てみましょう。
元は排水路だった
このエリアの昭和20年代の地図を見ると、風景は一変します。町屋駅の前は、道路ではなく川。正確には、川ではなく排水路となっています。
1947(昭和22)年発行の地図。すでに「三角形ゾーン」ができている(画像:時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)
かつて巣鴨から谷根千(谷中・根津・千駄木)のあたりに、谷田川(やたがわ)という川が流れており、付近ではかつて藍染めが盛んだったことから、谷田川は別名・藍染川とも呼ばれていました。
谷田川は小河川でしたが大雨で浸水することが多かったため、1918(大正7)年、現在の荒川区西日暮里4丁目にある高台・道灌山(どうかんやま)の下を通して、町屋方面から隅田川へと向かう排水路が建設されます。
このとき、現在の西日暮里駅から先は暗渠(あんきょ。地下水路)にしなかったので川となっていたわけです。
古い地図には「谷田川排水路」と記されていますが、地元では「どぶ川」「大どぶ川」と呼ばれていました。
排水路の上に新たな道路が誕生
昭和の風景でイメージされる典型例が、この排水路といえるでしょう。
その後、1960(昭和35)年頃までに暗渠となり、町屋駅前に新たな道路が生まれたというわけです。その道路は現在、「藍染川通り」と呼ばれています。
現在の周辺地図。排水路があったところに「藍染川通り」の記載がある(画像:(C)Google)
1947(昭和22)年に発行された地図を見ると、既にとがった「三角形ゾーン」ができていることがわかります。
15年前の風景はガラリと変化
ところが少しさかのぼって1932(昭和7)年の地図を見ると、町屋周辺の風景はガラリと変わります。
現在の都電荒川線は既に走っていますが、京成線も尾竹橋通りもありません。
少し範囲を広げて地図を見てみると、現在の荒川自然公園(荒川区荒川8)に向けて排水路がつながるだけで目立つ施設もなく、町の外れといった印象です。
荒川区の繁華街としていつも栄えている町屋の風景とのギャップが激しいものです。
1932(昭和7)年発行の地図。西には「町屋通」の名前も(画像:時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)
このような道では、三河島方面との交通が不便だと思うのですが、地図では現在の都電荒川線の町屋二丁目停留場(荒川区荒川6)から、荒川五郵便局(同区荒川5)のところの細い道が「町屋通」と記されています。
現在の町屋の西寄りにある原稲荷神社(同区町屋2)は参道あたりに風情のある商店街があります。現在の交通ルートが整うまでは、町屋の中心部はもっと西に寄っていたことがわかります。
現在の町屋駅周辺には何もなかった
さらに1919(大正8)年の地図を見ると、田畑の中に王子電気軌道(1943年から都電に)。
1919(大正8)年発行の地図。現在の繁華街の北西方面に集落がある(画像:時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)
そして前述の1932年の地図に「町屋通」と記されている道が三河島に通じています。
集落は、眼病や産婦の乳の出がよくなる御利益で知られる慈眼寺(同区町屋2)のあたりに広がっていて、現在の町屋駅周辺の繁華街は影も形もありません。
その後、1931年に京成線町屋駅(青砥~日暮里間)が開業、1932年に尾竹橋通りが開通。線路と道路が相次いで完成する過程で、「三角形ゾーン」は生まれたようです。
遊水池のような場所も
ちなみに前述の1932(昭和7)年の地図をよくよく見てみると、放水路のところから短い堀のようなものが伸びて、船だまりのようになっている場所があります。
1932(昭和7)年発行の地図。赤線で囲われた部分が遊水池のような場所。黄線で囲われたのが、排水路ができる段階で三角形に切り取られた土地(画像:時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)
地域の資料を調べてみましたが、排水路に船が浮かべられていたような記述はないので、大雨で増水したときに備えた遊水池のようなのかもしれません。
残念ながら、そうした水面があったかは記憶を見ても判然としません。この頃の地図は手作業で書いているので、堀なのか道なのか迷うところにたびたび出くわします。
いずれにしても排水路ができる段階で、土地が切られて三角形の土地になっていたのです。この土地が、いったいどのように使われていたのかはわかりません。
この排水路は「どぶ川」と呼ばれていましたが、かつて都内にはこのような周囲の排水が流れ込む川がいくつもありました。
昭和のアニメ作品でよく見た、「どぶ川に落ちるギャグシーン」は極めてリアルなものだったのです。
今では周囲は道路になっているこの「三角形ゾーン」ですが、片方が川だと隔絶した奇妙な島のように見えます。そんな形状に、皆さんもワクワクしませんか?