府中に徳川家康が豊臣秀吉のために建てた「御殿」があった 府中本町駅すぐそば、跡地にはいったい何が?

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府中に徳川家康が豊臣秀吉のために建てた「御殿」があった 府中本町駅すぐそば、跡地にはいったい何が?

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内田宗治

フリーライター、地形散歩ライター、鉄道史探訪家

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東京都府中市の府中本前駅すぐ近くに、徳川家康が豊臣秀吉のために建てた御殿があったのをご存じでしょうか。旅行ジャーナリストで地形散歩ライターの内田宗治さんが解説します。

近年の発掘でわかった御殿

 戦国時代の覇者で歴史上のスターといえば織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人です。江戸幕府を開いた徳川家康は別として、信長、秀吉は活躍の場が関西や中京地方のため、江戸(東京)にはほとんど縁がないと言われてきました。

 歴史好きとしては、そうしたスターたちゆかりの地を訪ねたいのですが、東京には該当する場所が家康関連を除きほとんど無かったわけです。

 ですが近年の発掘で、「秀吉に関しては覆った!」という説が有力になりました。多摩川の見晴らしがいい府中市内の高台に、家康が秀吉のためにつくった御殿があり、その御殿を秀吉が訪れたようなのです。

元々はイトーヨーカドーの駐車場

 JR南武線・武蔵野線「府中本町駅」の改札口を出ると、駅の隣に空き地が広がっています。京王線「府中駅」からも歩いて10分ほどの所です。

 駅前ががらんとしてほとんど何もない空間で、とても不思議な感じがします。ここが「国司館と家康御殿史跡広場」(6月1日より入園再開予定)です。広場の一郭に、国司館が10分の1復元模型が置かれています。

国司館と家康御殿史跡広場。2020年5月撮影(画像:内田宗治)



 2010(平成22)年、この地で掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)や塀跡、鍛冶炉跡など数々の遺構と共に江戸時代前期の三つ葉葵(あおい)紋の鬼瓦が出土しました。

 三つ葉葵はいうまでもなく徳川家の家紋です。この出土は遺構と徳川家との関係を決定付け、発掘関係者の間で衝撃的な成果となりました。

 同地は古くから「御殿地」と呼ばれ家康が建てた御殿があったと伝説のように語られていました。その一方で伝説は一般に忘れ去られていて、昭和40年代の武蔵野線工事の際に土地が削られたり、平成の初期には製粉工場、その後はイトーヨーカドー(府中店)の駐車場になったりしていました。

 イトーヨーカドーが当地への店舗移転を決め駐車場を解体したところ、遺構が次々に見つかり、移転を取りやめにした経緯があります。

豊臣家への忠誠を誓った家康

 なぜ家康が秀吉のために御殿をつくったのか、当時の状況を振り返ってみましょう。

国司館と家康御殿史跡広場内の国司館の10分1復元模型。2020年5月撮影(画像:内田宗治)



 1585(天正13)年7月、秀吉は関白に就任し、権勢の絶頂期を迎えます。実力を蓄えてきた家康に対し、秀吉サイドによる懐柔、臣従要求などが行われますが、家康は当初それをかわして受け入れません。そして翌年10月、家康は大坂城で諸侯を前にして豊臣家への忠誠を誓うこととなります。

 1590(天正18)年1月、秀吉は家康に北条氏を討つために小田原城への出陣を命じます。その後秀吉の大軍勢が小田原城を包囲し、同年7月北条氏を滅亡させました。

 その後秀吉は京都に戻らず、そのまま東北地方に向かいます。いわゆる「奥州仕置(支配)」です。発掘の地はその途上に位置しています。発掘された御殿は、秀吉の道中の疲れを癒やすために、その旅程にあわせて家康が建設したという説が、断然有力になりました。

国司の館の遺構も現れた

 御殿建設から25年後、家康が豊臣家を大坂の陣で滅ぼすことを思うと、家康の面従腹背(めんじゅうふくはい。表面だけは服従するように見せかけて、内心では反対すること)的な一面がうかがえて興味深いものがあります。

 秀吉は奥州仕置の際、往路は江戸を経由し、復路の行程は定かではなく、府中に立ち寄ったという確証はありません。ですが家康はタカ狩りを好み、その際、府中御殿を少なくとも2度利用したなどの記録は残されています。

 上記の発掘の際、同時に8世紀初頭前後に造営された古代国司(諸国の政務をつかさどった地方官)の館の遺構も姿を現しました。

京王線府中駅間の大国魂神社参道。2020年5月撮影(画像:内田宗治)

 古代武蔵国の行政府である「国府」が置かれた地が府中(現・府中市)です。

 武蔵国は、今日の東京都と埼玉県および神奈川県川崎市と横浜市の大部分を占める広大なものでした。各地の国の行政は、都から派遣された国司があたりました。発掘されたのは、その国司の執務室兼居宅と考えられています。

府中に御殿を造営した理由

 府中御殿がつくられたのは、1590年であることは間違いないとされています。

 この年の7月、家康は秀吉により関東に移封(いほう。大名などを他の領地へ移すこと)されて江戸に入った時期でもあります。まだ江戸城の普請(ふしん。建築工事)もろくにとりかかっていず、江戸を起点とした五街道も整備されていません。

 そうした時に府中の地に御殿を造営したのは、東海道と奥州を結ぶ道に近いという意味のほか、古代に国司があった場所として、当時も認識されていたためと思われます。

 同地は南向きの崖の上に位置し、その下には東京競馬場(府中市日吉町)や多摩川の低地が広がっています。西は大國魂神社(同市宮町)の森です。崖下は当時清らかな湧き水が豊富にあったはずです。

旧府中宿の高札場。同史跡広場の北約400mの旧甲州街道にある。2020年5月撮影(画像:内田宗治)



 同地のこうした立地の良さを、古代の権力者が気づき国司館を築き、その後忘れ去られていたようになったいたのを、家康やその家臣がすかさず目をつけて御殿を建てたということになります。

 同地を訪れて周囲を見渡せば、立地の妙を実感しながら家康と秀吉がここを訪れた当時に思いをはせることができます。近くの大國魂神社境内には、府中の歴史を紹介する「ふるさと府中歴史館」(6月9日以降入館再開予定)があり、あわせてそこを訪れるのもおすすめです。

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