上野公園に知る人ぞ知るマニアックな「前方後円墳」があった

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上野公園に知る人ぞ知るマニアックな「前方後円墳」があった

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荻窪圭

フリーライター、古道研究家

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上野といえば動物園や博物館、東京芸大などがまず頭に浮かびますが、実は前方後円墳もあるんです。フリーライターで古道研究家の荻窪圭さんが解説します。

その名も「摺鉢山古墳」

 間もなく春がやってきますが、春といえば桜、花見といえば上野。上野は江戸時代から桜の名所でした。2020年は……新型コロナウイルスの影響で例年ほどのにぎわいはないでしょうが、例年は桜も人出も見事なもんです。

 上野が人でにぎわうのは、桜の季節だけではありません。上野には博物館や美術館がずらりと並んでますし、上野動物園もあります。歴史好きには徳川家康を祭った上野東照宮、五重塔、清水観音堂(京都の清水寺を模したもの)といった寺社エリアとして認識されていることでしょう。あ、西郷隆盛像も忘れてはいけません。

 上野の見どころをひとつひとつ上げていくだけでもキーを打つ指が疲れちゃうレベルなわけですが、あまりにたくさんあるせいか、意外に知られてないのが古墳。

前方後円墳の摺鉢山古墳。右手のこんもりしたところが後円部。左手に少し見えているのが前方部(画像:荻窪圭)



 上野の……それもかなりど真ん中に前方後円墳があるのです。その名も「摺鉢山(すりばちやま)古墳」。

西郷隆盛銅像から北へ約200mの場所

 場所は東京文化会館の裏手あたり。正岡子規記念球場(東京屈指の観光地のど真ん中に野球場があるのも不思議ですね)の南側。西郷さんの銅像から北へ200mくらいのところ。

 不自然にこんもりした山がそうです。木々で隠れているのでわかりづらいのですが、よく見ると不自然に盛り上がってます。

摺鉢山古墳の墳頂。石のベンチが無造作に(画像:荻窪圭)

 しかもここ、誰でも登れます。登れるのは前方後円墳の後円部。平らになった墳頂は休憩所としてベンチも置かれてます。隠れスポットといっていいかもしれません。

墳頂には五條天神社が

 実はここ、昔は「天神山」と呼ばれていました。ここの墳頂に「五條天神社」が祭られていたからです。

五條天神社の鳥居。右手に見える小さな鳥居は花園稲荷神社(画像:荻窪圭)



 古墳というのは墳墓(ふんぼ)、つまりお墓ですからその上に神社を置くことが不思議と感じる人もいるようです。何百年もたちその被葬者も、あるいは何のための塚なのかも忘れられた頃、上野の台地のさらにひときわ高い場所に神様を祭ったと思うと、なんだかわかる気はします。

 この五條天神社、調べてみるとなかなか興味深いのです。

 まずは主祭神。一般に天神さまというと、「学問の神様」とされる菅原道真公を祭った神社と思われがちですが、五條天神社は違います。

 菅原道真公も祭られてますが、それは天神というからには道真公も、ということで江戸時代に合祀(ごうし。二柱以上の神や霊を一神社に合わせ祭ること)されたもの。もともとは学問の神様ではなかったのですね。

京都の五條天神社との関係性

 五條天神社の主祭神は、少彦名命(スクナビコナノカミ)と大己貴命(オオアナムチノミコト)。社伝によると日本武尊が東征のおりに祭ったもの……だそうですが、さすがにそれは古すぎでしょう。鎌倉~室町時代に京都の五條天神社を勧請(かんじょう)したものではないかと思います。

 京都の五条(今の松原通り)沿いにある五條天神社と、名前と祭神が同じなのです。京都の五條天神社の主祭神は少彦名命で病気退散の神でした。上野の五條天神社も大己貴命と少彦名命を祭っており、医薬祖神。

五條天神社の拝殿。医薬の神様として敬われている(画像:荻窪圭)

 京都の五條天神社を調べてみますと、創建は平安京遷都の794(延暦13)年なるも、五條天神社という名になったのは鎌倉時代といいます。

 翻って、上野の五條天神社。室町時代の紀行文「北國紀行」に「武蔵野の東の坂井、忍岡」(上野はかつて忍岡と呼ばれていた)に「鎮座社五条天神」があったと書かれてます。1486(文明18)年のことですから、京都の五條天神社を勧請したとしたら、鎌倉から室町時代の間だろうなと想像できるわけです。

 まあ細かいことなんですけど、そうやって歴史をさかのぼっていくのが好きなのですよ、わたし。

神社は移動すること計3回

 さてこの古墳の上の五條天神社ですが、江戸時代になると上野一帯が寛永寺の寺域となり、摺鉢山の上に清水観音堂が建てられることになり、天神社は遷座されることになります。

 場所は上野台地の南端、今の京成上野駅の真上あたり。1697(元禄10)年にはアメヤ横町入り口辺りへと移り、しばらくはそこで牛天神として祭られます。

上野の摺鉢山古墳と五條天神社の変遷。古墳からA → Bと移り、現在地へ落ち着いた(画像:荻窪圭)



 1928(昭和3)年になり、花園稲荷神社の隣地である現在地へ遷座。そこは摺鉢山から西へ約150mほどと元の場所のすぐ近くに戻ってきたわけです。

生き延びてきた古墳

 と、いささか予想外にマニアックな話になって恐縮なのでまとめますと。

1.古墳時代:上野台地に小ぶりな前方後円墳誕生
2.中世の頃(たぶん):古墳に五條天神社創建。天神山と呼ばれる
3.江戸時代前期:上野に寛永寺が作られ、五條天神社は上野の南の端へ遷座。この頃、菅原道真も祭られる。摺鉢山古墳には清水観音堂が建立
4.江戸時代(元禄の頃):五條天神社は今で言うアメ横入り口あたりへ遷座。清水観音堂は現在地へ移築
5.1928(昭和3)年:五條天神社が花園稲荷神社の隣へ遷座
6.現在:古墳の墳頂は休憩所として知る人ぞ知るスポットに

となるわけです。

江戸時代前期の地図。摺鉢山古墳に観音堂が、上野の南の端に牛天神(五條天神社のこと)、イナリ(花園稲荷神社)が描かれてる(画像:荻窪圭)

 古墳の塚もさまざまに活用されて生き延びてきたのだな、上野にはこんな知られざる歴史もあるのだな、天神社だからといって菅原道真公とは限らないのだな、と思いながら、摺鉢山古墳 → 五條天神社旧地 → 五條天神社と散歩してみるのも一興かと思います。

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