東京駅をつくった男「辰野金吾」没後100年、偉大なその功績を改めて振り返る
東京の玄関口と言われる「東京駅」。2014年には開業100周年を祝い、さまざまなイベントが行われたことは記憶に新しいでしょう。そんな浪漫あふれる東京駅の歴史について、フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。東京駅の設計、当初はドイツ人技師が 日本を代表するターミナル・東京駅(千代田区丸の内)は1914(大正3)年に開業しました。日本で鉄道が開業したのは1872(明治5)年です。開業当初に東京駅は存在しません。東京駅は後発ながら、その後に大きく成長して日本の表玄関になったわけです。 鉄道が開業した当初、ターミナル駅だったのは新橋駅です。新橋駅は後に貨物専用の汐留駅に転換されて、わが国の物流を支えました。現在、当時の駅は復元され、旧新橋停車場として保存されています。 東京中央郵便局のデッキから眺めた赤レンガ駅舎(画像:小川裕夫) 明治初頭に産声をあげた鉄道は、明治後期には全国へと広がっていきました。その過程で、政府首脳や鉄道関係者は中央停車場の必要性を認識するようになります。しかし、明治期の日本は建築・土木・電気・通信といった多くのインフラ分野を外国人技術者に依存していました。それは、鉄道おいても例外ではありません。そのため、日本人だけで中央停車場を具現化することはできません。 明治政府は早急に中央停車場を実現するべく、来日していたドイツ人技師のヘルマン・ルムシュッテルに依頼します。ルムシュッテルは東京駅の設計を開始し、その構想は同じくドイツから来日していたお雇外国人のフランツ・バルツァーに引き継がれます。 勤勉家だったバルツァーは日本をアジアの後進国とは見ておらず、独自の文化を持つ東洋の文明国だと感じていました。そのため、西洋諸国の文化や意匠を模倣するのではなく、バルツァーはふんだんに和を取り入れた中央停車場のデザイン案を練り上げたのです。 明治政府は西洋に追いつけ追い越せのスローガンを掲げていたため、バルツァーの日本文化を取り入れた中央停車場案に難色を示しました。こうした経緯から、バルツァーの中央停車場案は保留にされます。明治政府はバルツァーが帰国したのを見計らい、改めて建築家・辰野金吾に東京駅のデザインを依頼したのです。 八重洲駅舎の竣工は開業から15年後八重洲駅舎の竣工は開業から15年後 日本銀行本店や旧国技館の設計を担当した辰野は、すでに国内でも1、2を争う建築家として名声を得ていました。 夜になると、赤レンガ駅舎はライトアップされて幻想な空間を演出する(画像:小川裕夫) 辰野は日頃から、「中央銀行・中央停車場・議事堂の3つは自分の手でつくりたい」と口にするほどでした。そんな野望を抱いていた辰野にとって、政府からの依頼に1も2もなく飛びついたことは想像に難くありません。 こうして、稀代の建築家・辰野による東京駅デザイン案の練り直しが進められました。辰野は駅舎の外観こそバルツァー案と大きく変えましたが、線路の配線構造などはバルツァー案を参考にしています。そうした意味で言えば、東京駅は日独合作と言えるかもしれません。 赤レンガの映える東京駅のデザインはオランダのアムステルダム駅に似ていることから、長らく「東京駅はアムステルダム駅を模倣した」というのが通説になっていました。近年、研究が進んでアムステルダム駅模倣説は否定されています。否定された説ではありますが、それがひとつの縁となって2006(平成18)年に東京駅とアムステルダム駅は互いの親睦を深めるために姉妹駅提携を結びました。 東京駅が開業した当時、駅舎は丸の内側、つまり西側にしかありませんでした。江戸期から商人の町として栄えた東側には駅舎がなく、東側の住民たちが東京駅を利用するには丸の内側に迂回する不便を強いられていました。八重洲駅舎が竣工し、そうした不便が解消されるのは1929(昭和4)年まで待たなければなりません。 辰野がデザインした東京駅は関東大震災で倒壊を免れましたが、戦災で焼失しました。戦後、東京駅はいち早く復旧作業が始められましたが、屋根のデザインは丸みを帯びたドーム型から八角形に変えられました。これは鉄道の運行再開を第一にしたために、駅舎は応急処置的に補修で済まされたことが原因です。 戦後の混乱が収まった頃合いを見て、国鉄はドーム型の屋根に戻す予定にしていましたが、2014年まで八角形のままにされました。 2019年は辰野金吾が没してから100年の節目にあたります。100年間で建築も土木も飛躍的に技術が向上しました。駅そのものもさることながら、駅前広場や周辺の施設・店舗も劇的に変化しています。辰野が思い描いていた東京駅の風景とは大きく異なっていることでしょう。 いまや東京の顔になった東京駅は、絶えず変化を続けています。
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