よくある若い男女の恋愛話と思いきや、実は人間と動物が結婚しちゃうディープなお話『お若伊之助』【連載】東京すたこら落語マップ(7)

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よくある若い男女の恋愛話と思いきや、実は人間と動物が結婚しちゃうディープなお話『お若伊之助』【連載】東京すたこら落語マップ(7)

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櫻庭由紀子

落語・伝統話芸ライター

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落語と聞くと、なんとなく敷居が高いイメージがありませんか? いやいや、そんなことないんです。落語は笑えて、泣けて、感動できる庶民の文化。落語・伝統話芸ライターの櫻庭由紀子さんが江戸にまつわる噺を毎回やさしく解説します。

人間が人間以外の存在と結婚する話

「異類婚姻譚(いるいこんいんたん)」とは、人間が人間以外の動物と結婚する話です。世界中に分布し、日本でも御伽草子や民話などにみられます。

 落語にある異類婚姻譚は、三遊亭圓朝(えんちょう)原作だと言われている「お若伊之助」。今回は「お若伊之助」の舞台を中心に、谷根千落語散歩とまいりましょう。

※ ※ ※

 日本橋は横山町の生薬問屋「栄屋」。ここのお若というお嬢さんが女ざかりの17歳。小町と呼ばれるほどの美人。親御さんも大層かわいがる箱入り娘であった。

 そのお若さんが一中節を習ってみたいという。母親はかわいい娘のいうことだから習わせてやりたいのは山々なのだが、若い娘のこと間違いがあってはいけない。

 そこでとび頭である初五郎に相談すると、元武士で師匠の“菅野伊之助”を相談された。元武士であり、頭のお墨付きなら固い人だろうと、伊之助を日本橋の家に呼んで一中節を習わせることにした。

 ところがこの伊之助は、涼しげな目の様子の良い25歳。そんな若い男女がひとつの部屋で過ごしているのだから、間違いが起きないわけがない。お若の母がこれ以上深い仲になってはいけないと、伊之助に25両の手切れ金を渡し、ふたりを別れさせた。

歌川広重「絵本江戸土産 根岸御行の松」(画像:櫻庭由紀子)



 お若は「根岸御行の松」近くに住む、母の兄にあたる高根晋斎叔父さんの剣道場に移された。周りは武骨な男ばかりで話し相手も居ない。伊之助への思いは募るばかり。ついにお若は、恋煩いで寝たり起きたりの状態となってしまった。

 根津の桜が舞うある日、お若が縁側で入り江の鐘が鳴り、花びらを手に取り会いにこない伊之助を恨みながら淵川に身投げをしようかと考えていると、向こうに伊之助がたたずんでいる。部屋に招き入れたことをきっかけに、お若は再び伊之助と逢瀬(おうせ)を重ねるようになった。

お若に会いに行ったのは誰だったのか

 そのうち、お若が懐妊した。これには武骨な叔父もさすがにわかる。相手が伊之助とわかると、間に入っている初五郎を呼んだ。

 初五郎に、伊之助がやってきてお若と逢瀬を重ねていることを告げると、初五郎は両国の伊之助のもとに向かった。「お嬢さんとまだ会っているたあ、ふてえ野郎だ、首を出せ」。しかし、伊之助は「昨日は初五郎さんと一緒に吉原にいったじゃありませんか」。

 急いで初五郎が叔父のもとに戻り事情を話すと、「お前が酔っぱらっている間に根岸に向かったのではないか」。確かに、吉原から根岸までには遠くはない。「ふてえ野郎だ」と再び両国へ走る。

 伊之助が話を聞くと「昨日は一緒に夜通し起きていたじゃありませんか」。そうだったと叔父のもとに戻り、「昨日お嬢さんのもとに行ったのは、伊之助ではありません」と説明する。

 では、一緒に見届けようと、初五郎は叔父と一緒に夜を待つことに。みると、やってきたのは確かに伊之助。叔父は種子島の火縄銃に火種を詰めると、伊之助の胸に狙いを定め引き金を引いた。

 どっと倒れた死骸の側に行ってみると、伊之助と思ったのは大きな古だぬきであった。お若が伊之助を思う焦がれるため、たぬきが伊之助に化けて毎夜通っていたというわけだった。

 月が満ちたお若が産んだのは、双子のたぬきであった。葬ったあと塚を立てた。根岸御形の松のほとり、因果塚の由来。

※ ※ ※

時代は明治 そして舞台は根岸から神奈川へ

「お若伊之助」の舞台は、根岸。その昔は「根岸の里」「根岸の侘(わ)び住い」といい、田舎の別荘地といった場所でした。ご隠居やお妾さんが多く住んでいた場所だそうで、日本橋から根岸に移されたのでは、若いお岩にとっては酷なことだったのかもしれません。

 また、この噺(はなし)の時代設定は明治。新橋から横浜まで汽車が走り始めたころだったようです。汽車が出てくるシーンは後ほどみるとして、まずは根岸近辺とゆかりの地を歩いてみましょう。

台東区谷中の全生庵にある三遊亭圓朝の墓(画像:櫻庭由紀子)



●根岸御形の松
 台東区根岸4丁目にある、江戸期から「江戸の大松」として親しまれた、西蔵院境外仏堂不動堂境内の名松です。現在の松は3代目。初代の松の根で彫られた不動明王像が祭られているとのことです。

 もっともらしい「因果の塚」ですが、まったくの創作につき存在しません。そして、この塚には、お若がたぬきと契り子を産んだだけではない、深い因縁が埋められることとなります。

●全生庵
 台東区谷中5丁目にある臨済宗国泰寺派の寺院。幕末三舟のひとり山岡鉄舟が、徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提(ぼだい)を弔うために1883(明治16)年に建立しました。近代落語中興の祖であり、本演目の原作者といわれる三遊亭圓朝の墓所があります。

 圓朝は鉄舟に禅の精神を教わったとされ、鉄舟の教えに由来する「無舌居士(むぜつこじ)」の道号を、天龍寺の滴水和尚から授かっています。夏に行われる「谷中圓朝まつり」では、圓朝のコレクションである幽霊画を毎年公開。三遊亭鳳樂、三遊亭円橘、三遊亭好楽による圓朝寄席が行われ、多くの人が訪れます。

●西念寺
 台東区根岸3丁目の浄土宗寺院。お若の叔父でたぬきの伊之助を撃った高根晋斎宅は、この寺の近くという設定です。後にお若は出家し、この寺の横に小さな案を構え住まうようになります。そして、今度は本物の伊之助と再会し逢瀬を重ねるようになるのです。

●新橋駅
 日本初の鉄道路線が開通したのは1872(明治5)年9月12日。新橋~横浜間で、品川、川崎、神奈川を経由しました。後に語ります、お若と伊之助が駆け落ちしようと落ち合う場所が神奈川。お若は新橋から汽車に乗り込み、伊之助の待つ神奈川へと向かいます。

 現在の新橋駅の西口広場は蒸気機関車が設置されていることで「SL広場」とも呼ばれ、待ち合わせやイベントでにぎわっています。また、酔っ払ったお父さんへのインタビューには必ず登場する広場です。

お若の因果は時をかける

 さて、現在かけられている「お若伊之助」はほんの一部。本来は「根岸お行の松 因果塚の由来」という全九編の長講です。基になった話では、お若はたぬきの双子ではなく、人間の双子を生みます。そして、本当の「因果」がまわりはじめるのです。

※ ※ ※

 お若が生んだ双子は、男の子と女の子。それぞれ伊之吉、お米と名付けられ、初五郎の口利きで伊之吉は大工の棟梁(とうりょう)・芳太郎に、お米は大阪の豪商越前屋佐兵衛にそれぞれ養子に出された。お若にどこか嫁に行くように勧めてみても、かたくなに行こうとしない。そして、西念寺に庵(いおり)を構え、お若は尼として閉じこもるようになる。

 そのうち、ある一中節の門付けが毎日やってくるように。彼こそ伊之助。再会したふたりは、人目を忍んで逢瀬を重ねるようになる。しかし叔父に知られてしまうところとなり、ふたりは神奈川へ駆け落ち。やがてふたりに子どもができ、岩次と名づけ幸せに暮らし始めた。

歌川広重「東京汐留鉄道御開業祭礼図」(画像:櫻庭由紀子)



 時がたち話は変わって、品川の和国楼(わこくろう)という廓(くるわ)。花里という女郎と良い仲になったのが、お若が生んだ伊之吉。花里が身請けされそうになり、ふたりは見世抜けをして品川から逃げる。

 お若と伊之助が神奈川で生んだ岩次も18となった。叔父のところに謝りに行こうと、根岸へ戻る。すると、叔父は「お若はあれからずっと伏せって根岸の家で暮らしている」という。さてはまた妖の類いかとみれば、どちらのお若も変わったところはない。ふたりとも、正真正銘のお若なのだ。

圓朝の『因果塚』はどんな噺だったのか

 そこに追われて駆け込んでくる男女。伊之吉と花里だ。ふたりはうりふたつ。花里はお若が生んだ双子の女の子、お米だった。叔父はお米を身請けしたが、伊之吉とお米は兄妹のため結婚することはできない。契りを結んでしまっていたふたりは、綾瀬川に身を投げて心中した。

 そしてふたりのお若の方はというと、叔父は人の身体が分身し生活するという離魂病(りこんびょう)を思い出す。わかれたふたつの体は同じ空間に存在すると死んでしまうという。あくる日、伊之助とともに暮らしたお若は消えており、根岸のお若は死んでしまった。

 伊之助は絶望し首をくくり、岩次は両親と兄妹を弔うため仏門に入った。そして、谷中へ一基の因果塚を建立。因果塚の由来の一席。

※ ※ ※

 1914(大正3)年の3代目春風亭柳枝(りゅうし)の速記は、お若が双子の男女を生んだところで終わっており、内容も「根岸お行の松 因果塚の由来」に準じています。

 それでも随分と長い噺であったようで、3夜に分けて演じられています。時代が進むにつれて長い噺を書けなくなり、寄席の尺に合わせて改定されていったのかもしれません。

 またこの「根岸お行の松 因果塚の由来」は、実は圓朝作ではないとも言われています。1927(昭和2)年出版の春陽堂版「圓朝全集」の編さんに当たった鈴木行三氏によれば、

「これは圓朝の『因果塚』を、偽作屋が勝手に小細工をして、圓朝没後圓朝の名で出版したものと思われます。圓朝の『お若伊之助』の速記が出来ていない為已むを得ず参考として編入したのであります」

とのことで、確かに「因果」を語る噺ならば、たぬきはお若をたぶらかす必要はなく、いきなり湧いて出た離魂病のミステリーも蛇足のような気がします。

 圓朝の「本物」は果たしてどんな噺だったのか。今となっては謎のままです。

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