喜劇王「チャップリン」が大の東京びいきだったことをご存知ですか

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喜劇王「チャップリン」が大の東京びいきだったことをご存知ですか

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増淵敏之

法政大学大学院政策創造研究科教授

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知らない人はいない、「世界の喜劇王」チャップリンと日本の意外な関係について法政大学大学院教授の増淵敏之さんが解説します。

大の日本・東京びいきだったチャップリン

「世界の喜劇王」として知られる、イギリス人のチャールズ・チャップリン。そんなチャップリンが黒澤明、手塚治虫、三谷幸喜などのクリエーターや、萩本欣一、太田光などのコメディアンに大きな影響を与えてきたことはよく知られています。

チャップリン(画像:(C)Collection Lobster films.、ザ・シネマ)



 チャップリンは、4回来日しています。戦前に3回、戦後は1回で、最初に来日したのは1932(昭和7)年のことです。

 彼の当時のマネジャーは高野虎市で、運転手から起用された日本人でしたが、チャップリンの信頼は厚いものがありました。それが高じて一時期、チャップリンの自宅のスタッフは全員日本人になったともいわれています。そして彼は、大の日本びいきになりました。

五・一五事件に巻き込まれかけたチャップリン

 ただ1932年といえば、日本はすでに満州事変に突入しており、国際的な孤立の方向に向かっていました。そこでチャップリンは日本と米国の友好のために、当時の首相・犬養毅との会見を希望します。

 もちろん、犬養は国際協調を念頭に会見に応じました。その結果、この情報は新聞記事になり、青年将校たちの知るところとなったのです。

 マネジャーの高野は青年将校たちの不穏な動きを察知し、チャップリンに東京駅から帝国ホテルに向かう途中、皇居に遥拝(ようはい)してほしいと頼みました。このエピソードもよく知られています。

皇居の様子(画像:写真AC)

 チャップリンの自伝によると、この会見は犬養毅が殺された「五・一五事件」の翌日に予定されていましたが、当日に相撲を観戦していたため、巻き込まれなかったとのことです。そして犬養の葬儀が総理官邸で執り行われた際、チャップリンは弔電を寄せています。

 そういうわけでチャップリン本人は迅速に離日する希望を持っていたのですが、周囲のとりなしで日本滞在を延ばすことになります。滞在中、歌舞伎座や明治座に足を運び、初代中村吉右衛門、六代目尾上菊五郎、2代目市川左團次の楽屋を訪ねています。また各国の文化水準は監獄を見ればわかるという持論のもと、小菅刑務所(現在の東京拘置所)を視察にも訪れています。

和風ステーキが好物だったチャップリン

 チャップリンの東京での滞在は、帝国ホテル(千代田区内幸町)でした。この時代の帝国ホテルは、米国の建築家であるフランク・ロイド・ライトが設計し、1923(大正12)年に完成したものです。鉄筋コンクリートおよびれんがコンクリート造り、地上3階(中央階5階)、地下1階、客室数270の日本を代表する近代型ホテルでした。

 チャップリンはここの和風ステーキが好きだったといいます。有名なシャリアピンステーキはロシアの有名な声楽家、シャリアピンのために創作されたもので、チャップリンの最初の来日時にはまたメニューに登場していないはずです。

帝国ホテルの外観(画像:写真AC)



 帝国ホテルは横浜のホテルニューグランドに対抗心を燃やし、1928(昭和3)年からコックの海外研修制度を設け、フランスから最新技術や流行を取り入れようとしました。ここから帝国ホテルは、フランス料理のメニューを確立。

 ホテル地下1階にある「ラ ブラスリー」は2014年、「帝国ホテルゆかりの著名人が愛したメニュー」を企画し、その際にチャップリンが滞在時に食べた「和牛サーロイン肉の炭火焼き」が再現されました。

てんぷらも好物だったチャップリン

 彼はてんぷらも好物で、特にえび天が好きだったそうです。主に通ったのは日本橋の「花長」だったといいます。この店は、日本橋から大鳥居(大田区)に移転。店内にはチャップリン来店時の写真を飾っていましたが、数年前に廃業しました。彼はここで、えび天を30尾以上も食べたという逸話を残しています。また、同じく立ち寄ったことのある銀座の「天金」も今はありません。ちなみに「天金」は国文学者・池田弥三郎の生家としても知られています。

えびの天ぷら(画像:写真AC)

 チャップリンは戦後来日した際、高度成長期で変貌著しい東京の風景に失望し、京都には古きよき日本を見て喜んだとも伝えられています。また、彼が3度目の来日で感銘を受けた岐阜の鵜(う)飼いも戦後に見たときには観光化が進み、落胆のコメントも残しているようです。

 東京は、確かに戦災を受けて変貌したのかもしれません。戦前の名店も随分と姿を消しました。しかし、残念だという気持ちもありつつ、さらに変貌していく東京とともに私たちは歩んでいくことを余儀なくされているわけです。歴史は決して逆行はしません。変貌を自明のものと受け止め、東京と寄り添っていくことが定めなのでしょうか。

世界の喜劇王が東京に向けた愛情

 彼の足跡をたどってみますと、数多くの名店に足を向けていることがわかります。例えば1895(明治28)年創業のポークカツレツ発祥の店、銀座の「煉瓦亭」(現在の店は昭和30年代に完成)。この店は夏目漱石、古川緑波、小津安二郎などもひいきにしていたようです。

 また1927(昭和2)年に創業した銀座の料亭「花蝶」でチャップリンが座敷で芸妓(げいぎ)と小唄に興じている写真も残っています。「花蝶」は現在では名前を残しながらも、料亭スタイルのレストランに衣替えしています。

現在の「花蝶」の外観(画像:(C)Google)



 チャップリンが愛した戦前の東京は大きく姿を変えましたが、戦火をくぐり抜け、1932年6月に完成した和光(旧服部時計店)を銀座の街角に立って見上げていると、チャップリンの愛した「東京の幻影」が見えるような気もするのです。

 そういえば彼が映画の中で使用していたステッキも日本製でした。世界の喜劇王の日本や東京に向けた愛情に感謝したいものです。

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