進化する東京の裏で多くの犠牲 歴史遺産と巨大開発の対立史をひも解く

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進化する東京の裏で多くの犠牲 歴史遺産と巨大開発の対立史をひも解く

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小川裕夫

フリーランスライター

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進化し続ける都市・東京。そんな東京はこれまで、歴史と都市化との衝突がいたるところで起きてきました。フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。

徳川政権から400年の歴史を持つ都市

 現在の東京は、徳川家康が1590(天正18)年に江戸へ入府してから大きく変貌しました。明治以降は市区改正、関東大震災からの復興、戦災復興、1964(昭和39)年の東京五輪に向けてのインフラ整備など、都市改造を繰り返し行ってきたのです。

 2020年の東京五輪も同様で、五輪のメーンスタジアムとなる国立競技場(新宿区霞ヶ丘町)は建築家・隈研吾さんのデザインによる新しい国立競技場へと生まれ変わる予定です。

11月末の完成を控えた新国立競技場の様子(画像:写真AC)



 このほど、建て替え工事中の新国立競技場の地中から人骨が発掘されていたことが明らかになりました。江戸時代、同地には寺が建っていたため、発掘された人骨はそこに埋葬された人たちの骨と推定されます。

 建築物の建て替えや大規模開発時に、歴史的な遺物が発掘されることは珍しい話ではありません。まして、東京は徳川政権が始まってから400年の歴史があります。そうした歴史を勘案すれば、いまだ数々の歴史が発掘されずに埋まっている可能性は高いのです。

 しかし、歴史的な遺産は道路や鉄道、高層ビルなどの建設を阻む障壁になります。また、後から問題視されるケースもあります。その一例が、奈良市の平城宮跡です。平城宮跡の敷地内には、近畿日本鉄道奈良線が横断しています。このため、平城宮跡は線路で分断された世界遺産として知られます。

 一見すると奇妙に映る平城宮跡の線路ですが、これには事情があります。線路を敷設する際、近鉄が平城宮跡を避けて建設したのです。ところが、後年の調査で平城宮の範囲がもっと広大であることが判明。このとき、すでに電車が走り始めていました。

 線路の付け替えには、駅舎の移転も伴います。簡単に線路の移設はできません。そうした事情から、現在も近鉄が平城宮跡を横断する状態が続いています。

 東京でも、歴史と都市化の衝突は各所で起きています。都営地下鉄浅草線が建設される際、徳川家の菩提寺である増上寺(港区芝公園)付近で掘削工事が進められました。この工事の影響で、三解脱門が傾くという事態が起きています。

 ほかにも江戸時代から街道のシンボルだった日本橋の頭上に、首都高速道路が建設されたことは有名な話です。日本橋の頭上に道路が走る光景は気分がよくない、景観的にも問題という批判が起きました。

大きく変化する社会と人々の概念

 そうした批判を受け、2005年頃から政府は日本橋の移設を検討します。しかし、移設にかかる工費が5000億円と試算され、それらを捻出することが難しいことから移設計画は宙に浮きました。

頭上に首都高速道路が建設されている日本橋(画像:小川裕夫)



 現在、再び首都高の移設計画が動き出しています。これは首都高が老朽化し、リニューアルの必要に迫られたためです。首都高のリニューアルと同時に日本橋界隈の再開発も着工することで工費を縮減できる見通しになり、移設費用がまかなえると判断されたのです。こうした都市の大改造で、過去の歴史との共存は必ず突き当たります。また、近年は自然環境の保護意識も高まっているため、開発にもそれらが求められるようになっています。

 地下鉄千代田線の掘削工事は、その影響で上野公園の不忍池の底が抜ける事態が発生。池の水が流出する騒動が起きました。多摩ニュータウンの開発では、丘陵を切り崩して宅地を造成したことから多くの自然が失われました。

 開発にまつわる問題は明治・大正・昭和に偏りがちですが、平成の30年間でも新たな問題が生まれています。平成の30年間は、これまでにないほど急速に技術が進歩し、また規制緩和も勧められました。そのため、社会が大きく変革し、人々の概念も変わりました。それが東京のいたるところで、ハレーションを起こす要因にもなっています。

 昨今は訪日外国人観光客が急増し、そして日本人も気軽に海外へ出かけるようになりました。そうした動向から、羽田空港の発着便数を増やすために滑走路などの拡張が検討されています。しかし、滑走路を拡張しただけでは発着便数を増やすことはできません。

 空港周辺は飛行機の発着を阻害しないように、高い建物が建設できない規制があります。東京スカイツリーもこの規制に抵触しましたが、電波塔という公的な役割が勘案されて例外とされました。

 しかし東京都心部の建物は高層化を続けているため、それらが羽田空港を発着便数の増加を阻む要因になっているのです。ビルの高層化も羽田空港の発着便数増加も、どちらを欠いても東京という大都市は成り立ちません。うまく共存できる術をみつけるしかないのです。

 江戸開府から400年以上が経過し、東京奠都(てんと)からも150年が経過しています。東京は今も進化を続けており、その進化の裏で多くの犠牲があったことも忘れてはなりません。

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