「寺と墓ばかり」と呼ばれた台東区・谷中が、年間300万人の集客エリアに大化けした理由

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「寺と墓ばかり」と呼ばれた台東区・谷中が、年間300万人の集客エリアに大化けした理由

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百瀬伸夫

IKIGAIプロジェクト まちづくりアドバイザー

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かつては「時代遅れのまち」と呼ばれ、賑わいを失っていった台東区の谷中エリア。しかし現在は、インバウンドなどのあいだで人気のエリアとして復活を遂げています。いったいなぜでしょうか。IKIGAIプロジェクト まちづくりアドバイザーの百瀬伸夫さんが解説します。

東京なのになぜ古い家屋が残っているのか?

 谷中銀座商店街はテレビに多く取り上げられ、人気の観光地です。2016年には谷中地区でインバウンド(訪日外国人)を含めた集客が300万人を超え、話題となりました。

 谷中の魅力は熱々の揚げたてコロッケを食べ歩きするだけではなく、路地を散策するとレトロなまち並みや歴史文化、古民家を改装したモダンな店に出会えること。まるでタイムスリップしたような印象を受けます。しかし、ここまでの道のりには数々のストーリーがありました。

築80年の古民家3軒家を複合してリノベーションした「上野桜木あたり」。オープン以来近所の人や、国内外の観光客に人気のスポットになっている(画像:百瀬伸夫)



 谷中は東京23区のほぼ中心となる台東区にあり、荒川区と文京区の区境に位置します。東に山手線「日暮里駅」、北は「西日暮里駅」、西は千代田線「根津駅」「千駄木駅」、南は上野公園に囲まれており、いずれからも1km以内の徒歩圏です。近くには学芸の頂点を極める「東京大学」「東京藝術大学」があり、「谷中霊園」には江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜も眠っています。

 江戸時代の谷中は寺町で墓参を兼ねた行楽の地として栄え、町屋が立ち並び、独特の風情あるまち並みがつくられました。また江戸幕府が台地上の谷地を利用し、狭道をくねらせ、階段や行き止まりを多くし、敵の進入を防ぐまちづくりとしたため、明治・大正期に商工業者が移住してきました。しかし開発に不向きな地形だったことから、町の原型がそのまま残されてきたのです。

 関東大震災や空襲を免れたことも幸いし、江戸から明治・大正、昭和の建物やまち並みが今も多く残り、谷中は東京でも特別な存在となりました。とはいっても、レトロなまち並みを残していくのはそう簡単なことでありません。

女性3人でつくった雑誌『谷根千』が谷中を救った

 今から50年前にさかのぼりますが、1969(昭和44)年に地下鉄千代田線が開通すると人の流れが一気に変わり、駅近くの商店街から急激にお客が減ってしまいました。谷中は寺と墓ばかりの「時代遅れのまち」として賑わいを失っていった時期があったのです。

 そんななか、地元愛にあふれる主婦仲間3人が日本で初めての地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を発行し、レトロなまち並みや歴史ある神社仏閣、お祭り、人間の匂いがたちこめるまちを紹介したのがキッカケとなり、“谷根千(やねせん)”の愛称とともに谷中周辺の良さが浸透していったのです。

2009年発売の『ベスト・オブ・谷根千―町のアーカイヴス』(亜紀書房)。『谷中・根津・千駄木』の、人気の高かった記事などで構成されている(画像:ULM編集部)



 そして、バブルの到来。幹線道路沿いで地上げが始まり、危機感を持ったまちの人たちがまちづくりに立ち上がりました。谷中の人々が選んだのは「再開発型」ではなく、「修復・保存型」のまちづくりで、谷中らしい価値や魅力を調べ、地域の人たちに伝え・残すというものでした。この頃、世の中は“まちを再開発して新しいきれいな建物に!”という流れの中でしたから、思い切った価値観の転換といえるでしょう。

まちを愛する、熱い想いがまちの人々を動かした

 まず、まちの魅力となる建築や文化財の修復・保存のため、藝大や東大の大学院生や地元有志が動きました。芸術祭などのイベントを継続することで、谷中界隈にはギャラリーやカフェが次第に増え、まちの魅力が少しずつ高まっていったのです。それとともに世間の評価も高まり、有志たちは家屋の保存再生、借り上げなどの事業をスタートさせました(NPO法人たいとう歴史都市研究会)。
      
 彼らは、地域に残る古い木造建物のリストをつくり、毎日まち歩きをしながら、オーナーとの関係を築いて、日々、建物の動向に目を配ったのです。まちを愛する熱く粘り強い有志たちの気持ちが通じて、2017年には不動産会社 「まちあかり舎」(台東区根岸)が設立され、家主と入居者をつなぐ事業を中心に積極的な活動に発展しました。

下町風情が残る谷中は、ますます人気のまちに

 オリンピック・パラリンピック開催も間近となり、東京は世界有数の超近代的な都市空間に様変わりしています。一方、下町風情が残る“イーストTOKYO”が観光のブームとなっており、谷中は今後もますます脚光をあびることでしょう。

 谷中地区に残された江戸後期から、明治・大正・昭和のまち並みと、歴史・文化が再認識されているのです。皆さんが谷中のまち歩きをするときに、レトロなまち並みの裏側に数多くのまちを愛する人達の気持ちがあったことを想像すると、谷中のまちの魅力がさらに増すと思います。ここで「まちあかり舎」のステキなメーセージをご紹介します。

「世代を越えて生きてきた家には、時間の積み重ねが地層のように標されています。私たちは、人の営みと建物を受け継ぎ、まちに、あかりを灯していきます」

谷中のおすすめのスポット

●HAGISO(谷中3)
 境内に萩が多く植えられていることから、萩寺とも呼ばれる宗林寺に隣接している「HAGISO」は最小の文化複合施設です。ここは以前、東京藝術大学の学生が住んでいた木造アパートでしたが、老朽化から解体することになりました。

ゲストハウス「HAGISO」の外観、谷中観光のシンボル的施設になっている(画像:百瀬伸夫)



 学生たちがお別れイベントを開催したところ反響を呼び、ついに大家さんは解体を中止。カフェ・ギャラリー・ホテルレセプションがある小さな文化施設として生まれ変わりました。地域の八百屋、肉屋、魚屋から仕入れた食材を使ったメニューや自家製ケーキが味わえ、ギャラリーでは若手アーティストの作品が展示されています。

 2階はゲストハウス「hanare」のレセプション(受付)で、宿泊所をまちなかに点在させる“まち全体がホテル”というコンセプトが話題となり、全国から若い女性や旅慣れた海外旅行客が訪れています。

●未来定番研究所(谷中5)
 藍色の粋なのれんが掛かった「未来定番研究所」は築100年の古民家をリノベーションした「大丸松坂屋百貨店」の研究所オフィスです。一体何をするところかと思ったら、5年先の“未来定番生活を提案する百貨店”というビジョンを実現するための研究機関だそうです。元の持ち主で、3代続いた銅細工屋「銅菊」で鍋ややかんをつくっていた職人が聞いたら、さぞびっくりすることでしょう。古い建物から未来に向けた新しいものがつくりだされるのは素晴らしいことです。

都内でプチ旅行気分が味わえる

●上野桜木あたり(上野桜木2)
 上野桜木の築80年の古民家3軒をリノベーションした複合施設は、今人気のスポットです。その名もズバリ「上野桜木あたり」。私は以前、藝大生と待合せを約束する際に、「上野桜木あたりで」といわれ、「桜木あたりといわれてもねぇ……?」という笑い話がありましたが、とてもオシャレなネーミングだと思います。

大正5年の建物で、谷根千の一等地「上野桜木」に、まちづくりの布石としてリニューアルされた「カヤバ珈琲」。ノスタルジックな気分に浸れることから外国人観光客にも人気(画像:百瀬伸夫)

 ベーカリーショップ・ビアホール・オリーブオイル店・ヨーロッパのビンテージものの洋服店が入っていて、古民家の路地はコミュニティースペース。休日にはイベントも開かれ、井戸のそばでビール片手に井戸端会議の風景も。

●いせ辰(谷中2)
 実は私は谷中近くの出身で、若いころ絵を描く参考によく行った店が、江戸千代紙の「いせ辰」です。1864(元治元)年創業の「いせ辰」は現在、5代目で千代紙の木版手摺りを伝承し、1000種類もの千代紙やおもちゃ絵はまったく古さを感じさせない江戸の粋なデザイン。観光みやげや自宅のインテリアとして購入する女性が多いようです。

 また「カヤバ珈琲」「間間間(さんけんま)」「市田邸」「旧平櫛田中邸アトリエ」など古い建物が保存され、実際に使われ現代によみがえっています。プチ旅行気分が味わえる谷中に秋の一日、ぜひ訪れてみてください。

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