山手線の北側部分が、まるで「M」みたいな形になってるワケ
「まあるい 緑の山の手線~♪」というCMソングがあるように、丸いイメージを持たれている山手線ですが、北側はアルファベットの「M」のような形になっています。いったいなぜでしょうか。フリーライターの弘中新一さんが解説します。東京の地形図を見る楽しみ 筆者の趣味はさまざまな地図サイトを見ることです。なぜなら、普段見なれている東京の街が地図ごとで異なった顔を見せてくれるから。最近よく見ているのは国土地理院の「デジタル標高地形図」です。 デジタル標高地形図はその名の通り、各土地の標高がわかる地形図。これまで訪れていた東京の街が標高の低い平地にあるのか、台地の上にあるのか、谷戸(谷間)にあるのか――を知ると楽しくなります。 東京は関東平野に築かれた街ですが、実際は起伏が多く、地方から引っ越して来た人が「平野だと思っていたのに……」と話題にするのも、これらの地図を見れば納得です。 池袋~田端間の謎のくぼみ そんなデジタル標高地形図を眺めていて気になったのが、山手線の北側、池袋~田端間です。なぜか線路が一度南に下がって、くぼんだような形になっています。まるで英語の「M」のようです。 大手家電量販店のCMソングで「まあるい 緑の山の手線~♪」という歌詞がありますが、そのくぼみっぷりを見ると、思わず「えっ、全然丸くないよ?」とツッコミを入れたくなるほど。 池袋~田端間の「M」字状のくぼみ(画像:(C)Google) そればかりではありません。地形図を見ると、池袋から田端までの区間の多くは切り通し(山・丘などを切り開いて通した道路)になっていることがわかります。 この区間は、日本鉄道(日本最初の民営鉄道会社。現・山手線、東北本線、常磐線など)時代の1903(明治36)年4月に開業しています。もう少し北側に回り込めば谷戸は比較的浅くなるのですが、どうしてこのような路線になっているのでしょうか。 池袋には「駅ができる予定はなかった」 資料を探したところ、さすがは山手線、この疑問にすっきり答えてくれる研究書に出会いました。紀行エッセイスト・竹内正浩さんの『地形で読み解く鉄道路線の謎 首都圏編』(JTBパブリッシング、2015年)です。 『地形で読み解く鉄道路線の謎 首都圏編』(画像:JTBパブリッシング) この本を読んで驚いたのは、もともと池袋には「駅ができる予定はなかった」ということ。 現在の埼京線が日本鉄道品川線として品川~赤羽間で開通したのは、1885(明治18)年です。その後、すでに開通していた上野~熊谷間に1896年、田端駅が開業。しばらくして、田端方面から赤羽駅を経由せずにショートカットする路線が計画され、豊島線(としません)の名前で計画は進みます。 以下、時系列です。 ・1883年:日本鉄道上野~熊谷間開業 ・1885年:日本鉄道品川~赤羽間開業(品川線) ・1896年:田端駅開業 ・1901年:品川線と建設中の豊島線を統合して山手線に改名 ・1902年:目白~板橋間に池袋信号所を開設 ・1903年:池袋~田端間開業。池袋信号所は池袋駅に昇格 赤羽駅で接続していた上野方面の路線と品川方面の路線を、さらに南側で接続させようとしたのが、池袋~田端間の路線です。なお現在の山手線が完成し、環状運転が始まったのは1925(大正14)年のことです。 駅の拡張を考えた結果、池袋に駅の拡張を考えた結果、池袋に『地形で読み解く鉄道路線の謎 首都圏編』によると、当初の計画では田端から南西方向、目白方面へ接続することになっていたものの、計画は途中で変更に。その理由は、住民の反対や「巣鴨監獄」に近すぎるという意見が出たためでした。 また将来、駅周辺が発展して駅の拡張を考えた場合、切り通しのなかにあって拡張が難しい目白駅より、平地で人口も少ない地域に池袋駅を新たに設けたほうが利点があるとされたようです(伊藤暢直「日本鉄道池袋停車場設置経緯に関する考察(二)」『生活と文化:豊島区立郷土資料館研究紀要』第15巻)。 田端から目白方面までは当初、巣鴨と雑司ヶ谷に駅が設けられる予定でした。巣鴨はすでに山手線の駅が完成していましたが、雑司ヶ谷は都電があったものの、副都心線の開通までは鉄道空白地帯でした。 左側が1909(明治42)年の地図。目白駅〈黄枠〉と巣鴨駅〈赤枠〉の位置関係(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕) 1909(明治42)年の地図を見ると、目白~巣鴨間を通り抜けようとすると繁華な地域を通らなければなりません。用地確保はどう見ても困難そうです。このような状況であれば、建設をスムーズに進めるために「遠回りしてでも避けよう」と考えるのは当然です。 池袋駅が建設されたことで、山手線にはM字状の線形ができることになりました。しかし問題はまだ残っていました。 雑司ヶ谷を避けても、中山(なかせん)道・日光街道などの街道を横切ることは避けられません。この辺りは江戸時代、町屋が並び、街道を行き交う人々を相手にした商売が盛んであり、途中にはふたつの川が刻んだ谷戸もありました。 池袋駅の端緒となった「M字」池袋駅の端緒となった「M字」『地形で読み解く鉄道路線の謎 首都圏編』によれば、線路は田端駅まで台地の下を走っていたものの、巣鴨方面が上りの急勾配になるため、切り通しを使って勾配の緩和に努めたとのこと。それでも当時の最大傾斜である10‰(パーミル)になったとのことです。 ‰は傾斜を示す鉄道用語で、10‰は「1000m進んだら10m高さが増す」を意味します。一見、大した勾配ではないように見えますが、鉄道は勾配に弱いため大変な急坂です。 「M字」区間の地形(画像:国土地理院) 板橋駅辺りから分岐して田端方面とつないだら楽なように見えますが、どちらにしても台地の勾配を昇り降りしなければなりませんし、今と違い、当時は完全な町外れなので乗客も確保できそうにありません。 このような難工事で出来上がった「M字」区間ですが、結果として池袋駅という一大ターミナルができる端緒となりました。 今回の調査で、山手線は多くの人が研究していることが改めてわかりました。これからも、普段電車に乗っているときや路線図を見ていて感じるときに気づいた疑問を調べていきます。
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