バブルの中心地 「六本木」、当時の情報誌を片手に街を歩いてみた
バブルの代名詞的存在の場所が六本木です。そんな六本木を30年前の情報誌を片手に、ルポライターで著作家の昼間たかしさんが歩きます。ガイド役は『Hanako』1989年5月25日号 東京の街は変化が早いもの。2020年の東京五輪をめざしてあちこちで再開発が進んでいます。気がつけば昭和や平成の頃は当たり前だった街並みが、次々となくなっているのです。 いったい街並みがどのように変化をしたのか。街並みは変わっても、当時の資料を読めば過去と現在を繋ぐことができます。単に読むだけではありません。過去の街並みが記された資料を手に街を歩けば、現代を歩きながら過去の思い出すこともできるのです。 六本木交差点の様子(画像:写真AC) そこで今回は、かつてのバブル景気を思い出しながら、六本木を歩いてみました。案内してくれるのは、ライフスタイル情報誌『Hanako』の1989(平成元)年5月25日号。この号に掲載された特集「六本木バイブル」は、六本木を16のエリアに分類し181の店を紹介しています。 大指揮者・カラヤンが立ち寄ったドイツ料理店も 六本木の駅を降りて、まず見つかるのは喫茶店「アマンド」(六本木6)。建物は変わりましたが、ここは今でも待ち合わせスポットとして賑わっています。 喫茶店「アマンド」の外観(ULM編集部撮影) そこからまずは芋洗坂へ向かいましょう。バブル時代、この道は歩道もきちんと整備されておらず、もっと狭苦しい道でした。そんな通りを、新宿から麻布十番を経由して田町へ向かう都営バスが駆け下りていたとはにわかには信じられません。 そんな坂にそって、バブルの頃は世界のさまざまな食のレストランがありました。ドイツ料理店「ドナウ」は、カラヤンが立ち寄った本場さながらの店。イタリア料理の「ボルサリーノ」は『Hanako』いわく、「30代のカップルが客層の中心という大人の店」と記されています。 東京の、最先端だったはずのそうした店も今はありません。目立つのはコンビニエンスストアやチェーンの飲食店だけでなく、シャッターが降りたままの建物です。どの建物を見ても、すべてのフロアが埋まってはおらず、空きテナントが目立つのです。 かつての一等地が、このようになっているとは当時誰が想像したでしょうか。坂を下りきったところにあった、エスニック料理店「MAGIC」は芸能人がよく利用していたという人気の店でした。そして、坂を下りればもう目の前は麻布十番です。歩いて10分ほどの道のりですが、バブルの頃はタクシーを求めて右往左往するのが日常だったといわれます。今は、そのような人はまずいません。 今なお残る「本来の六本木」の風景今なお残る「本来の六本木」の風景 さて、再び坂を登って六本木方向へと戻りましょう。このあたり、バブル時代以前は、繁華街と下町とが入り交じる変わった地域でした。バブル時代には盛んに地上げが行われた結果、下町はほとんど消滅しましたが、それでもなお「本来の六本木」のような風景は残っています。 先に消滅したのは、時代を象徴した施設のほうでした。外苑東通りに出て、ロアビルの斜め向かいのカドにあったのが「ハンバーガーイン」。 この店は進駐軍の将校が1950(昭和25)年にオープンしたアメリカンスタイルのハンバーガーショップでした。ジュークボックスも置かれた正統派スタイルの店。土曜は朝の8時まで営業していて、若者の喉や腹を満たしていました。 飯倉片町方面へ歩くと、柵で覆われ目隠しされた廃駐車場が眼に入ります。ここには、今も語られる「鳥居坂ガーデン」の跡地です。 飯倉片町交差点周辺の様子(画像:(C)Google) テラス席の置かれた中庭をぐるっと平屋の建物が囲み、本格フランス料理を味わえる「モンダルジャン」。中華料理の「露天」、それに「ハーゲンダッツ」と名店が揃ったスポットでした。酒を飲んだ後、深夜に食べるアイスクリームのおいしさを教えてくれたのは、ここだという人も多いものです。 さて、このあたりからちょっと裏通りにはいってみると、急に寂しい風景になります。そんな場所ゆえにか、隠れ家的な店が大人の店もたくさんありました。モダンな雰囲気の「カフェルマン」。アルゼンチンタンゴのライブレストラン「カンデラリア」などなど……。 繁華街側のディスコが軒を連ねた地域から見ると、崖の下。今でもある階段を上り下りする手間ゆえにか、プレミアムな感じがあってよく利用されたといわれています。 では階段を昇ってみましょう。かつて、そこは10階建てのフロア、ほぼすべてがディスコの「スクエアビル」を中心としたバブル時代の中心地でした。「キャステル」「ネペンタ」「ギゼ」「キサナドゥ」と、ディスコが栄えていたのです。カリビアンリゾートがコンセプトで、音楽どころか料理もすべてスパイシーなカリブ料理という「ジャバ・ジャイブ」なんて尖ったディスコもありました。 街は移ろいやすい存在街は移ろいやすい存在 ディスコに向かう若者達が集まるのは、その一角にあるイタトマこと「イタリアントマト」でした。今も各地にあるこのチェーン店は、バブル時代には若者たちがとりえあず集う定番だったのです。 その奥にあったのが「日拓ビル」。ここには「エリア」と「シパンゴ」がありました。とりわけ前者は、黒とゴールドを基調にした豪華で広い人気店で、ここで目立てば六本木のディスコクイーンにもなれると噂されていました。 その跡地にできた映画館「シネマート六本木」もなくなってしまいましたが、その隣にある「香妃園」はバブル時代から残る定番の店です。バブルの頃は六本木通りに面した場所にあって、シメにここで鶏ソバが人気でした。 天祖神社 龍土神明宮付近の様子(画像:(C)Google) さて、また別の方向へ。アマンドを背にして、六本木交差点の向こう側。現在の「東京ミッドタウン」には防衛庁が。「新国立美術館」のところには、東京大学生産技術研究所がありました。このあたりは、バブル時代になって栄え始めた地域。 いまだにその反映を知らしめるのは、天祖神社 龍土神明宮(同7)方面に入るところに、一軒の廃墟です。ここは「大八」という名前のラーメン店。バブル時代にも既に古ぼけていたカウンターだけの店でしたが、深夜まで営業している人気の店でした。この店と乃木坂下の「かおたんラーメン えんとつ屋」(こちらは今も健在)は、バブル時代には着飾った人々が深夜に列をつくっていたといいます。 バブル時代から、すでに30年余りが過ぎようとしています。その時代の『Hanako』と対比すると、いかに街が移ろいやすいものかひと目でわかるのです。昔の雑誌をひとつ手に取るだけで繋がる過去と現在。このような散歩を楽しんでみてもいいのではないでしょうか。
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