銀座から2駅、江戸から続く「原風景」があった 路地や井戸が織りなす異空間、いったいどこ?

東京という大都市の喧騒に疲れたあなたを癒す場所が、銀座から2駅の場所にあります。その名は佃島。いったい何があり、どのような歴史があるのでしょうか。都市探検家・軍艦島伝道師の黒沢永紀さんが解説します。


もともとは中洲島

「佃島」と聞いて、佃煮を思い浮かべる人は多いでしょう。今回は、東京湾の奥座敷に佇む、「佃煮発祥の地」ともいわれる佃島にスポットを当ててみたいと思います。佃島は、隣接する石川島とともに、その昔から隅田川の河口にあった中洲の島で、その後埋め立てが繰り返され、人が生活できる土地になっていった島です。

長屋街がまるごと残る新佃島の一角(画像:黒沢永紀)



 佃島の歴史は江戸開幕まで遡ります。徳川家康が本能寺の変の際に岡崎城へ戻る途上、摂津の佃村(現・大阪市西淀川区佃)の村民が川の渡しを手助けしたことから、そのお礼として隅田川河口の中洲島への居住を認めたことに始まったといわれます。

 現在、佃島は月島埋立地の一部となり、住所としては佃1丁目に、かつての佃島だったエリアがあります。また1丁目の東に隣接する佃2丁目と3丁目は、明治中期に行われた東京湾澪浚(みおさらい)事業によって造成された埋立地で、1丁目と2丁目の北部が、かつて石川島だったエリアに相当します。

 江戸時代からあった1丁目の佃島に対して、明治に造成された2丁目と3丁目は新佃島と呼ばれていました。また佃の南に広がる月島エリアも、同時期に造成されたもので、80年代の街興しで大きな成功をおさめた「もんじゃストリート」は、ご存知の方も多いことでしょう。

 また、石川島は、江戸時代に「人足寄場(にんそくよせば)」とよばれる軽犯罪者の更生施設があり、その後の石川島監獄所があった南部。そして幕府の海軍造船所があり、その後石川島播磨重工(現IHI)の造船所があった北部。いずれも特殊な歴史を歩みながら、現在はタワーマンションの先駆けといわれる「大川端リバーシティ21」の摩天楼が林立しています。

そこかしこに長屋がある新佃島

 今回この佃エリアを取り上げたのは、ここに東京の原風景が今でも静かに息づいているからです。月島を取り囲む運河が防火壁となって、先の大戦の戦禍をかろうじて免れたため、戦前の街並みが数多く残りました。

佃島から見る江戸と平成が混在した時空の歪んだ光景(画像:黒沢永紀)



 新佃島には、そこかしこに長屋、それも五軒以上が連なる長屋が散見します。江戸時代は、長屋といえば八軒や十軒など、長世帯は当たり前でしたが、関東大震災以降、類焼を避けるために、三軒を限度とすることが推奨された結果、現在都内に残るものは三軒長屋がほとんど。五軒以上の長屋は珍しい例です。

 さらに新佃島の特筆すべき点は、長屋が単体で残っているだけではなく、裏長屋の街並みがまるごと残っていることにあります。通りに面した「表店(おもてだな。商店)」の後ろに長く連なって、店が管理する賃貸の共同住宅、すなわち長屋があり、隣接する長屋に挟まれた土地は路地を造って、ちょうどその真ん中あたりに、井戸を囲んだ共同水場と共同厠(かわや。トイレ)、そしてゴミ捨て場があったりするのが裏長屋の街並み。このすべてのアイテムが揃って、江戸時代から続く長屋街となります。

 昨今は江戸東京博物館(墨田区横網)を始め、江戸の街並みを再現した地域資料館も多く、裏長屋の様子をジオラマで見ることはできますが、実際の長屋街をまるごと体感できるのは、知る限りこの新佃島のだけです。

 時代劇などにしばしば登場する、井戸端会議に花を咲かせる女性たちのシーンは、この裏長屋の光景で、水場を中心にしたコミュニティの規模や距離感をリアルに知ることのできる貴重な一角と言えるでしょう。

 また、新佃島には、昭和初期の典型的な商店建築三種を計画的に並べたとしか思えない、博物館のような一角もあります。一軒は町家といわれる、昭和初期まで造られてきた基本的な木造の商店建築。一軒は銅板葺の看板建築、もう一軒は人造石による看板建築です。なお看板建築とは、関東大震災の後から高度経済成長期の終わり頃まで、国内で作り続けられた路面店舗の典型的な建築方法です。

 上記の裏長屋街や商店以外にも、さまざまな戦前の建物が建ち並ぶ新佃島は、まるで時の止まった街にタイムスリップした錯覚を覚えるほど。今から100年前の東京の原風景を知ることができる、貴重な街だと思います。

 新佃島の西に位置するのが、元来の佃島があった佃1丁目。新佃島のような商店建築や裏長屋はなく、近年建て替えられた木造戸建て住宅が数多く建ち並ぶ合間に、戦前の木造建築が点在しています。ただし、佃島にはビルがほとんどなく、あってもせいぜい4階どまり。木造の低層住宅がひしめく光景は、とても銀座から2駅とは思えません。

漁師たちが力比べをした「さし石」も

 佃島といえばやはり佃煮。いまでは数件の佃煮屋が残るばかりですが、その一軒、1837(天保8)年創業の「天安」は、昭和初期の建て替えながら、創業時の姿のまま再現されている見事な町家。江戸の商家を今に伝える、佃島のランドマーク的な存在です。

1837年創業、佃煮屋「天安」のある風景(画像:写真AC)



 また、かつての漁師の網元「正政商事」は、型押しを施したすりガラスの玄関や板張りの壁、銛(もり)をデザイン化した樋(とい)飾りや檜の一枚板を使用した戸袋など、ほぼオリジナルパーツがそのまま残り、しかも現役で使われています。意匠を凝らした戦前の木造建築を知ることができる重要な建屋といえるでしょう。

 島の中心にある波除神社には、漁のできない日に漁師たちが力比べをした「さし石」があったり、島の真ん中を流れる舟入掘の泥中(でいちゅう)には、江戸時代から受け継がれた大幟(おおのぼり)を掲げる巨大な支柱が埋められているなど、江戸の面影を感じられるスポットが多々あるのも魅力的です。

 と同時に、船入掘の堰き止めから北方を眺めると、赤く塗られた佃小橋の奥にタワーマンションが林立する時空の歪んだ絶景が広がって、訪れた人を驚かせるのも、現代の佃島の魅力ではないでしょうか。

 さまざまな会合の席で、女性の方々に「高層ビルを造りたいと思いますか? 高層ビルは必要ですか?」と、よく質問します。すると、おおかたの女性からの回答は「ノー」。本来、人類はすべてが女性で、生殖分離の必要から後付けで男性が誕生したともいわれます。

 だとすると、高層ビルとは、男性が低い生存能力のカモフラージュで生み出した幻想ではないか? そして、低層の住宅や商店こそ、本来人間が求める生活の形なのではないか?……摩天楼に囲まれた佃島を訪れると、いつもそんなことを考えてしまいます。


【写真】懐かしい、そしてなぜか落ち着く……都内にある路地裏の風景(10枚)

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