シンプルで美しい「モダン建築」、その感覚は元来日本人が持っていたものだった

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シンプルで美しい「モダン建築」、その感覚は元来日本人が持っていたものだった

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黒沢永紀

都市探検家・軍艦島伝道師

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約90年前の深川には、当時最先端の建物が建ち並んでいました。いわゆるモダン建築です。そんなモダン建築がたどった歩みを都市探検家・軍艦島伝道師の黒沢永紀さんが解説します。

線と面だけでシンプルに構成された外観

 今から90年くらい前、東京下町の深川とよばれるエリアに、当時最先端の建物がいくつも建ち並んでいたのをご存知でしょうか。今回はその中から現存するふたつの物件を取り上げ、ビルがひしめく東京の原点を探ってみたいと思います。

 ひとつめは、地下鉄門前仲町駅から北西に5分ほど歩いたところにある、1932(昭和7)年築の「深川東京モダン館」(江東区門前仲町)。その前身は、関東大震災の復興事業の一環として、東京市が都内数カ所に建設した食堂のひとつです。

 ほどなくして食料配給所となり、戦後は職安や内職補導所として使われていましたが、2008(平成20)年に登録有形文化財に。翌年、「深川東京モダン館(以降モダン館)」として開館し、江東区の観光拠点として使用されています。

昭和初期に最先端の建物だった「深川東京モダン館」リニューアルされたその姿は、とても90年以上前の建物とは思えない(画像:黒沢永紀)



 この建物の最大の特徴は、当時世界的に最先端だった「国際様式」とよばれる建築様式が採用されていること。国際様式とは来たるべきグローバル化社会を先取りし、合理的で秩序ある国際的なデザインを掲げて、ドイツを中心に発信された建築様式でした。これがいわゆるモダニズムと言われる形の原点です。

 建築は常になんらかの装飾を施すことで、「時代の象徴」足りえてきましたが、モダニズムはザックリと言ってしまえば、その装飾を全て無くしてしまう発想です。それは建築の大革命ともいうべき出来事だったといえます。

 装飾らしいものが一切なく、線と面だけでシンプルに構成されたモダン館の外観は、まさに国際様式そのもの。しかし、そんな最先端な見た目とは裏腹に、当時の人たちは、飾りがまったくない建物を「味気ない」と感じ、「豆腐に目鼻」と揶揄(やゆ)しました。

モダニズムは「元来日本人の感覚の中にあった」

 モダニズムが日本で花開くのは、戦後を待たなければなりませんでした。アメリカ文化の流入とともに合理的な考え方も普及し、やっとモダニズムの感覚も浸透し始めます。同時に戦後の物資不足も相まって、お金のかからない「豆腐に目鼻」は一気に街に溢れかえりました。

 しかし、ここで大きな過ちが起こってしまいます。本来モダニズムは、装飾を施さない代わりに、全体のバランスやデザインによって装飾を超える美を表現しようとしたものでしたが、この肝心なところをすっ飛ばして、節約できる建築という部分だけが一人歩きしてしまった結果、見た目にはいささか感動が薄い、文字通り豆腐に目鼻の建物が量産されていくことになりました。こうして、昭和の無彩色で画一的な建物が造り続けられたわけです。

 実はモダニズムは、元来日本人の感覚の中にもあるものでした。障子格子をはじめとした直線的でシンプルな構成や、外界と室内を緩やかに繋ぐ縁側、そして軒先といった造りは、逆にヨーロッパのモダニズム建築に見ることができます。

 ヨーロッパにとってはとても新鮮だったモダニズムも、日本人にとっては馴染みのあるものだったはず。その昔から造り続けていた日本建築を、近代的な素材でアレンジするだけでよかったのですが、カタカナ言葉を盲信してしまったゆえに、本来持っていたものを生かせなかった、ということだと思います。まさに灯台下暗し。

 今見ても、モダン館はとても美しいフォルムをしていますが、この建物を見る時、伝統と新しさとは何かを、いつも考えさせられます。

ニッポンのマンションの原型「清洲寮」

 もう一件は、地下鉄清澄白河駅の目の前にある「清洲寮」(江東区白河)。1933(昭和8)年築の、今でも現役の鉄筋コンクリート(以降RC)造の集合住宅です。いわばニッポンのマンションの原型と言えるでしょう。

 RC造の集合住宅の歴史は、1903(明治36)年に始まります。パリのフランクリン通りに建つアパートで、設計はRCの父と言われるオーギュスト・ペレ。正真正銘の最古で現役のマンションです。

 世界初のマンションはわかりやすいのですが、これが国内となると、とてもややっこしくなります。国内初のRC造の集合住宅は、2015年に世界遺産登録された軍艦島にある30号棟。ペレのアパートから遅れること13年。1916(大正5)年築の集合住宅で、現在もかろうじて残っていますが、すでに人が住んでいないので現役ではありません。

 次に、現在も使われている建物で最古の集合住宅というと、1926(大正15)年築の、大阪にある船場ビルディング。しかし建物は現役ながら、住居としては使われておらず、オフィスビルとして使われているので、現役の集合住宅とは言えません。

関東大震災の教訓も反映

 2019年夏の時点で、竣工当初から現在まで住居として使われている最も古いRC造の集合住宅は、同じ大阪にある1932(昭和7)年築のトヨクニハウス(大阪市)。もっとも、1棟4室2階建のこじんまりとした外観は、小規模な木造アパートのような印象です。

 トヨクニハウスの翌年に建てられた清洲寮は、部屋数が66もある4階建で、その外観も現在のマンションに近く、この建物が、東京にある最も古い現役のRC造の集合住宅ということになるでしょう。

創建当時のイメージを損なわない配慮が感じられる清洲寮の玄関引戸。改装前(左)と改装後(右)(画像:黒沢永紀)



 一部に当時の建築様式の名残が見られるものの、極めてシンプルな外観から、前述の国際様式の洗礼を受けた後だということがよくわかります。ただし、シンプルと言っても、無装飾な平面に均一的な窓が並ぶ、高度経済成長期の公営アパートとは異なり、一部に渡廊下を施工したり、窓の形状に変化をつけたりと、単調にならない工夫が随所に見てとれます。

 外観はシンプルですが、ひとたび建物の中に足を踏み入れると様相は一変。5つある階段入口の床面には、レトロな3色の豆タイルが敷き詰められ、また、腰壁(こしかべ)という、腰くらいまでの高さを補強もかねて別素材で施工する壁の部分には、スクラッチタイルと呼ばれる、当時流行った引っ掻き傷のあるタイルが貼られています。

 居室も、洋風だった同潤会のアパートとは違って、純和風とでもいうような造りをしていました。格子でできた木製引戸の玄関や、戸建住宅の床下と同じような構造で畳を並べた様子は、RCの建物の中に長屋の部屋を造りこんだようなイメージです。

 清洲寮は、木場の材木関係の仕事仲間が出資して建てたアパートで、今でも出資者の親族がオーナーを務める個人経営のアパートです。一時期は、古臭い建物と敬遠された時代もありましたが、昨今のリノベーションブームやレトロブームに呼応して、今ではデザイン事務所を中心に全館満室。常に入居待ち状態とのこと。ちなみに一部屋は、2Kで6万円前後。

 最も特筆すべきは、そのリノベーションです。近年行われた外壁や木部などの大幅な改装の際に、玄関扉をアルミ製ではなく木製の格子戸に新調するなど、創建当時の姿をそこなわないような配慮が随所にみられます。また、最近の耐震検査にも見事合格していることから、関東大震災の教訓がしっかりと反映された建物だということがわかります。

 スクラップ&ビルドが日夜繰り返される東京で、個人経営のアパートが100年近くも存続していることだけでも奇跡の出来事。マンションの原点を知る遺産として、今後もずっと残ってほしい建物です。

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