目黒名物はサンマではなくタケノコだった。目黒と薩摩を結ぶ意外な関係とは
目黒名物といえば現在ではサンマですが、これはもちろん落語つまりフィクションの話。江戸時代末から大正時代までの目黒の名物といえば、サンマではなくタケノコでした。そして当時は、タケノコの本場は京都ではなく薩摩(鹿児島)と思われていたのです。食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。 立会川名物、たけのこせんべい 品川区立会川の菓子店、大黒屋。 大黒屋(画像:近代食文化研究会) 立会川のお土産といえば、大黒屋の「たけのこせんべい」。 このたけのこせんべい、もとはといえば目黒で売られていたもの。かつては全国的に有名だったお菓子で、デパートや国際線の機内で提供されていました。 たけのこせんべい(画像:近代食文化研究会) というのも、かつての目黒の名物といえば、サンマではなくタケノコだったからです。立会川のたけのこせんべいは、目黒の店の「支店」として売られていたのですが、現在は目黒では売らなくなったので、立会川名物となったのです。 とはいえ、立会川とタケノコが無縁というわけではありません。立会川から2キロほどの距離にある大田区馬込も、かつてはタケノコの名産地でした。 『食通』1938年5月号の岡村吉二「筍・竹の子」によると、東京南部のタケノコはもともと山路勝孝という人が、品川の戸越に持ち込んだもの。その後、栽培範囲が馬込や品川の大崎、目黒の碑文谷、世田谷の駒沢へと広がっていったのです。 タケノコはかつて、現在の東京23区南部で広範囲に栽培されていた、目黒というよりは江戸東京の名物だったのです。 目黒不動尊と筍飯 それではなぜ、タケノコは戸越や馬込ではなく、目黒の名物とされていたのでしょうか? 1893(明治26)年生まれの作家・獅子文六は、目黒不動尊参拝の際に、筍飯が売られていたのを見ました。 “その門前町に、古い料理屋が、数軒あったのである。そこで、春はタケノコ飯、秋は栗飯を食 わせた。その頃の目黒は畑と雑木林ばかりで、私が中学生の頃は、遠足だの、機動演習に行ったが、確かに、竹林も存在した。だから、土地で獲れるタケノコや栗を、江戸時代から続いて、名 物としたのだろう。”(獅子文六『食味歳時記』 文春文庫 1979年刊) >>関連記事:東京屈指の古刹「目黒不動」の名前の由来について、散歩しながら考えてみた 筍飯のイメージ(画像:photoAC) 目黒不動尊は、江戸時代から遠方より参拝客を集めていた名刹です。その周辺の店が地元で取れたタケノコを名物の筍飯として提供したため、「目黒といえばタケノコ」というイメージが定着したのです。 目黒不動尊のイメージ(画像:photoAC)薩摩からやってきた孟宗竹のタケノコ 東京南部で栽培されていたタケノコは、現在でも一般的な孟宗竹のタケノコです。 日本の孟宗竹の歴史は意外と浅く、江戸時代に中国から琉球経由で薩摩に渡来し、そこから全国に広がっていきました。 戸越に孟宗竹のタケノコをもたらした山路勝孝も、薩摩藩御用商人として孟宗竹を知り、薩摩から取り寄せたといわれています(小柳輝一『たべもの歴史散策』1994年刊)。 大田南畝(なんぽ)の『奴師労之(やっこだこ)』(1821年刊)によると、南畝が若い頃つまり18世紀半ば頃はまだ孟宗竹は珍しく、大久保の農家に生えていた孟宗竹をわざわざ見物しに行ったそうです。 戸越を始め江戸南部で栽培が始まったのはその後、18世紀末頃ですから、江戸-東京の人が孟宗竹のタケノコを味わえるようになった歴史は意外と浅く、ここ200年ほどということになります。 孟宗竹のタケノコのイメージ (画像:photoAC)孟宗竹は中国から京都にやってきた? 現在、孟宗竹のタケノコの名産地として有名なのが京都。 孟宗竹は薩摩ではなく、中国大陸から直接京都に渡来したという説もあるようですが、これには疑問がつきます。 京都渡来説には資料的な裏付けがない、というのがその理由の一つですが、少なくとも18世紀末の時点において、京都には孟宗竹のタケノコが無かった、という証言があるのです。 橘南谿(なんけい)という京都在住の人が18世紀末に著した『東西遊記』には、薩摩への旅行記が記されています。橘は薩摩で食べた孟宗竹のタケノコのおいしさに感銘を受けます。 “他國(たこく)にはいまだ見ず。京都にも、甚(はなは)だ細く指ばかりなるは早春に出して料理に用ふれども、名計(なはかり)珍しくて、味は宜(よろ)しからず。” 孟宗竹は薩摩以外には存在しない、京都のタケノコは指のように細くておいしくない、と嘆いています。 “若(もし)此笋(このたけのこ)を京都に送り上(のぼ)さば、希代の珍味なるべけれども、道路三四百里を隔ておれば其事叶わず、おしむべし。” 薩摩から京都にタケノコを送ろうにも距離が……と未練を残す橘南谿。 その後京都にも孟宗竹が移植され、現在ではむしろ鹿児島よりも京都のタケノコのほうが有名になっているのです。 タケノコだけではない、目黒と薩摩(鹿児島)の関係 新型コロナの影響でしばらく中止となっていますが、目黒不動尊では毎年10月28日に「甘藷(かんしょ)まつり」が行われます。まつりの日には、大学いもをはじめ、さまざまなサツマイモ(甘藷)商品を売る露店が立ち並びます。 タケノコとサツマイモが結ぶ、目黒と鹿児島の不思議な縁(イメージ画像:photoAC) 救荒作物としてサツマイモ普及に尽力した甘藷先生こと青木昆陽は、目黒不動尊の近くに住んでいました。現在、青木昆陽の墓が目黒不動尊墓地にある関係から、故人をしのんで甘藷まつりが行われているのです。 孟宗竹のタケノコと同じく、サツマイモも中国から琉球、薩摩経由で全国に広まった作物。目黒と薩摩(鹿児島)は、食べ物の不思議な縁で結ばれているのです。
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