今なお現役、銀座「泰明小学校」 美しき曲線とアーチに込められた「革新と自由」への想い
銀座を歩いていると、周囲の街並みに似つかわしくないデザインの学校があります。その名は泰明小学校。そんな同校の歴史について、都市探検家・軍艦島伝道師の黒沢永紀さんが解説します。復興小学校とは何か? 銀座といえば、その名は海外でも知られる国内有数の繁華街。全国に数多くの「◯◯銀座」があるほど、商業地として名の通った場所であることは言うまでもありません。 その銀座のほぼ真ん中に、創立140年を越える伝統の小学校が今でも現役で開校しています。そう、2018年の春にアルマーニの制服で話題となった「泰明小学校」(銀座5)です。 現在の校舎は1929(昭和4)年築の復興小学校。今回は、戦禍も「3.11」も乗り越えた時代の生き証人、泰明小学校の校舎を中心にした話です。 幾何学的な装飾の柱や分厚い蛇腹の着飾りが特徴的な、泰明小学校の顔ともいえる正面玄関(画像:黒沢永紀) 1923(大正12)年9月2日(日)の正午前。関東一円を襲った未曾有の大地震「関東大震災」によって、首都圏は壊滅的な打撃を受けました。東京の被災面積は当時の40%強。罹災者170万人も同様に、当時の東京の人口の4割強に達します。 一日も早い復興を目指して始動したのが「帝都復興計画」。土地の区画整理から道路や橋梁、上下水道や電気・ガスといったあらゆるインフラ、鉄筋や木造による居住設備、食堂や職安などの厚生福祉施設など、ほぼ都市機能のすべてが復興の対象となりました。 中でも小学校の復興は注力されたひとつで、実に117もの小学校が、東京の下町を中心にした焼失区域の全域にわたって、1925(大正14)年から1931(昭和6)年にかけて建設されました。 鉄筋コンクリートのビルは、すでに明治の晩年から建設され、鉄筋の学校も大正期にいくつか建設されてはいました。しかし、鉄筋コンクリート造の建物が一気に普及するのは、この復興事業の時です。 復興事業によって造られた鉄筋コンクリート造の最大の特徴は、関東大震災と同様の震度7の地震がきても耐えうる構造。既に多くの復興小学校は解体ないし建て替えられていますが、今もなお当時の校舎を使用する現役の学校がいくつもあるのは、復興小学校がいかに強固に造られたものだったかの証でもあります。 築90年、創建当時の姿をとどめる校舎築90年、創建当時の姿をとどめる校舎 多くの復興小学校は急ピッチで建造されたので、決して豪華な造りではありません。しかし、それまでの木造校舎に比べて、鉄筋構造を生かした大きな窓からの採光、水洗トイレ、蒸気による暖房設備、そして屋内運動場(体育館)や特別教室(理科室や図工室など)など、生徒の健康と教育向上を重点に置いた、合理的な設計思想に貫かれていました。いまではどれもあたりまえの学校の造りですが、その原点は、この復興期に確立されたものだったのです。 採光に長けた大きな窓が施工された3階の教室(画像:黒沢永紀) 基本的な設計思想は一貫している一方、敷地の形状や面積に併せて、細かな設計やデザインは担当者の裁量に任されたため、ベースは共通しながら、ひとつとして同じ形の校舎はありません。 わずか数年の間の建設事業でしたが、建築的な時代変遷と重ね合わせてみると、ちょうど建物に装飾を施す最後の時代から無装飾の時代、すなわちモダニズムへの移行期に重なります。それゆえ、校舎には当時の建築潮流が少なからず反映されていました。 顕著なのが、従来の古典的な建築装飾に対して自由なデザインを提唱した「ドイツ表現主義」の流れをくむものと、装飾を排したシンプルなデザインの「国際様式」のふたつの潮流です。特に無装飾系の校舎は、戦後に量産される校舎の先駆的なものと言えるでしょう。 そんな復興小学校のひとつだった泰明小学校は、1878(明治11)年創立の長い歴史を持つ伝統校。開校当時の煉瓦の校舎が関東大震災によって全焼し、焼け跡では青空授業が行われたといいます。その後1929年に建てられたのが現在の校舎でした。 多少の耐震補強が施されているものの、2019年の時点で築90年を迎える校舎がほぼ創建当時の姿をとどめているのは、現在の鉄筋コンクリート造と比べて、遥かに厚い壁で造られていることも大きな要因でしょう。 幾重にも重なる蛇腹状の分厚い庇飾り幾重にも重なる蛇腹状の分厚い庇飾り 細長い校舎の北端に位置する雨天体操場兼講堂は、緩やかな弧を描く外壁で覆われ、泰明小学校でもっとも特徴的な部分。また3階に並ぶ大きなアーチ窓は、より多くの外光を取り込む効果を兼ね備えていました。そして正面玄関に施工された、アカンサスの花を幾何学的に処理したようなデザインの柱と、幾重にも重なる蛇腹状の分厚い庇飾りも泰明小学校ならではの外観です。 狭い敷地を効率的に使った校内。左上が正面玄関でその下にアーチの外塀が見える。右手前が弧を描く雨天体操場(画像:黒沢永紀) これらは、前述のドイツ表現主義の流れをくむタイプの復興小学校の特徴的な外観といえます。同じ中央区内にある「常盤小学校」(現役)や「十思(じっし)小学校」(現・十思スクエア)には3階だけのアーチ窓があり、また「京華小学校」(現・京華スクエア)の校舎の端は、泰明小の雨天体操場と同様に弧を描く処理が施されています。 少し余談になりますが、曲線やアーチはドイツ表現主義が多用したモチーフのひとつで、泰明小学校や常盤小学校など、中央区の建造物には矩形の上に半円を載せたアーチの形状が多用されているのをよく目にします。 しかし、例えば台東区の復興小学校を見ると、ロープの両端を同じ高さで固定して真ん中を垂らした時にできる「懸垂線」に近い形状が窓や庇に多様されています。このように、区によってデザインのアプローチに違いがあるのもまた興味深い点です。 ドイツ表現主義は、20世紀初頭にヨーロッパで勃興した芸術潮流のひとつで、従来の古典的な思想からの逸脱と同時に、第一次大戦で疲弊した精神からの解放を目指した運動でした。泰明小学校をはじめとした復興小学校の校舎にこの表現主義のデザインが多く取り入れられたのは、そこで学ぶ子供達に、革新と自由を胸に未来を見つめて育ってほしい、という思いが込められていたのかもしれません。 泰明小学校の敷地は極めて変則的で、また都内の多くの小学校と同様に面積も狭いため、グラウンドは直線で100mをとることができず、一周して100mのトラックがギリギリ入るだけ。そのかわり、細長い屋上を利用して50mのトラックが造られているのは、他の復興小学校にも共通する校舎の利用方法です。 2009年、近代化産業遺産に認定2009年、近代化産業遺産に認定 しかし実面積は狭くても、実際に校舎内を歩いてみると、それほど狭い印象を受けません。おそらく必要最低限の施設を、効率よく組み上げた設計プランの結果ではないでしょうか。 フランス門と、その頂点につけられた校章(画像:黒沢永紀) なお、通りに面した外壁にも連続アーチが施工されていますが、これは平成に入ってから近隣の商店主により寄贈されたもの。また、外壁の中央にある校章を配した門はフランス門と呼ばれ、これもまた外壁のリニューアルの際に、フランスから取り寄せられたもので復興期のものではありませんが、アーチの外壁とともに小学校を印象付けるのには大いに貢献していると思います。 泰明小学校の復興校舎は、前述の常盤小学校とともに、1999(平成11)年に東京都選定歴史的建造物に、さらに2009(平成21)年には、「今日の東京の礎を築いた都市形成を物語る遺産群」のひとつとして、経産省の近代化産業遺産に認定されました。 関東大震災の教訓から、震度7にも耐えうるように設計された復興小学校。島崎藤村や北村透谷の母校でもある泰明小学校は、震災の教訓と、昭和の初めに夢見た未来への希望を伝えながら、今も現役で開校しています。もちろん現役の学校なので、校内の見学はできませんが、復興建築の姿を伝える校舎は、隣接する通りからも見ることができます。銀座へお越しの際は、「今日の東京の礎」のひとつをぜひご覧になってはいかがでしょうか。
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