「東京23区内の島は1つだけ」はウソ? 中央区「石川島」の謎について調べてみた【連載】東京うしろ髪ひかれ地帯(13)
一般的に「東京23区唯一の自然島」は江戸川区の妙見島とされていますが、本当でしょうか。都内探検家の業平橋渉さんがその謎について調べました。中央区「佃島」「石川島」 筆者は前回の記事「『東京23区内の島は1つだけ』はウソ? 江東区の川に浮かぶ謎スポットを調べてみた」(6月27日配信)で、 「東京23区唯一の自然島は江戸川区の妙見島」 という、インターネット上で流布されている豆知識が本当なのかどうかを調べました。その際、読者から、中央区佃にある「佃島」「石川島」は自然島なのか――という問題提起を受けました。 中央区の佃エリア(画像:(C)Google) 本題に入る前に、お話を整理しましょう。江戸川区の妙見島が東京23区唯一の自然島という説は、次のとおり、新聞やテレビでこれまで何度か取り上げられています。 ●新聞 ・「TOKYO発 妙見島フシギ発見 旧江戸川 23区唯一の自然島 護岸に囲まれた「軍艦」 明治より100メートル下流に」『東京新聞』2011年5月9日付朝刊 ・「[波郷再訪](19)時と共に「流れる島」」『読売新聞』2013年7月31日付朝刊 ●テレビ ・「東京23区唯一の自然島“妙見島”でリゾート気分を満喫」『タモリ倶楽部』テレビ朝日系にて2011年10月15日放送 これらのいずれもが「東京23区唯一の自然島」という表現を用いていますが、どういう調査によって唯一と決まったかは、まったく触れられていません。 「自然島」とはなにか ここで気になるのが自然島とはなにかです。島の定義は、国連海洋法条約によると 「島とは、自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、高潮時においても水面上にあるものをいう」 と決められていますが、自然島はこれとは別の概念で使われています。次に新聞記事データベースで自然島を検索すると、 「東京湾唯一の自然島・猿島(注:神奈川県横須賀市の沖合にある島)」 という形で使われていました。つまり、「埋め立てによってできた人工の陸地ではないもの」が自然島になります。 前述の妙見島は現在、周囲をコンクリートで固められていますが、元は江戸川の中州でした。自然にできた島なので自然島であることは間違いありません。 江戸川区にある妙見島(画像:(C)Google) さて、現在は周囲の埋め立てなどによって自然島のように見えないが、実は自然島という場所はほかにもあるのではないでしょうか……冒頭の問題提起は、その有力候補が佃島や石川島なのではないかというものでした。 果たして、佃島や石川島は自然島なのでしょうか、それとも人工島なのでしょうか。 「自然島」とはなにか「自然島」とはなにか 佃島は、江戸時代初期に大阪の佃村から移住した住民が浅瀬を埋め立てて築いた島です。 またつくだ煮の発祥の地であることや、下町の雰囲気を残すエリアとして、頻繁にメディアに取り上げられています。そのため、島の成立の過程を記した文献も多く存在します。 中央区佃にあるつくだ煮店(画像:(C)Google) 一方、石川島は、超高層住宅エリア「大川端リバーシティ」のあるエリアとして知られていますが、佃島ほどのメディア露出はありません。当初は佃島と別の島でしたが、現在は完全に接続し、佃2丁目の一部になっています。 江戸時代には人足寄場(浮浪人の収容所)が置かれ、明治以降に造船所がつくられて、IHI(江東区豊洲)の基礎が興った場所です。 江戸時代の地図からさかのぼる 早速、文献をあたることにしましょう。 石川島と佃島が記載された地図は、江戸時代になって見られるようになります。『中央区沿革図集 月島篇』(中央区立京橋図書館、1994年)では、江戸時代の地図に石川島と佃島がどのように描かれていたのか、その推移を図解しています。 超高層住宅エリア「大川端リバーシティ」(画像:写真AC) 最初期の記載は1632(寛永9)年の「寛永江戸図」です。ここでは江戸の地図ギリギリに「三国島」として記載されています。その後の1657(明暦3)年の「新添江戸図」では、同じく地図ギリギリに石川島が「石川大隅守」という名前で記載されています。 これが1689(元禄2)年の「元禄(げんろく)江戸図」になると、全体像が描かれるようになり、1771(明和8)年の「明和江戸図」では、ようやくふたつの島が当時の隅田川の河口にある形で描かれています。 この変遷を見ると、江戸時代中期になってふたつの島が江戸の街の一部と認識されるようになったことがわかります。しかし肝心の、自然島なのか埋め立て地なのかはわかりません。 「隅田川の土砂が滞積して三角州を形成」「隅田川の土砂が滞積して三角州を形成」 さらに石川島の始まりを調べてみると、名称は人名由来であることがわかりました。 1626(寛永3)年に旗本船手衆(船頭や水夫などを指揮する武士)の石川八左衛門重次がこの島を賜り、それから代々の子孫が住みました。そのため「石川殿島」と呼ばれるようになり、それが省略されて石川島と呼ばれるようになりました。 その後、1790(寛政2)年に人足寄場が設置されると、石川氏は翌1791年、麹町永田町馬場(現・千代田区永田町2丁目付近)に代地をもらって移転していきました。 石川氏が島を賜ったのは1626年で、前述の三国島との地図記載が1632年ですから、三国島の時点で人が住めるような島だったことがわかります。 さて、これ以前の島の様子はどうだったのでしょうか。隅田川沿いのエリアについて記した豊島寛彰の『隅田川とその両岸』上巻(芳洲書院、1961年)には、次のように記されています。 「要するに、近世にできた隅田川の三角州である。古図では寛永図に「三ごく島」とあるもので、当時は人跡不毛の一洲であり、昔は森島、鎧島、鉄砲洲向寄洲などいろいろの名称でよばれた」 この一文から、当時の隅田川の河口付近の中州、すなわち自然島として石川島があったことが推測できます。 山本兼吉『月島発展史』(画像:国立国会図書館デジタルコレクション) さらに山本兼吉の『月島発展史』(京橋月島新聞社、1940年)には、次のように記されています。 「永禄(えいろく)年間の古図を見ると隅田河口には後年の石川島と覚しき三角州の存在があり、江戸時代に入って寛永時代の地図を見ると之れに「三こく島」の名称が附されている。思うに江戸湾に流入する隅田川の土砂が漸次滞積して一個のデルタを形成し、寛永時代には「島」と称する程度には発達せることを示すものである」 ここで記された永禄年間(1558~1570年)の地図は今回確認できませんでしたが、この時代には既に地図に書き込む必要がある程度の陸地があったことは確かでしょう。 つまり、石川島は23区に存在する自然島であったと認めてよいことになります。 佃大橋の架橋前までは島っぽい感じ佃大橋の架橋前までは島っぽい感じ 佃島は北から東にかけて運河があり月島側と陸地がつながった今でも、島の雰囲気は残っています。 対して、石川島はその雰囲気を感じるスポットがありません。ただ、1947(昭和22)年発行の地図を見ると、まだ島といえる雰囲気があります。 1947年発行の地図(画像:国土地理院) ポイントは月島と佃島・新佃島の間に川(佃川)が流れていることです。 佃川は1961年に佃大橋が架橋される際に埋め立てられ、月島と佃島、新佃島は陸続きになりました。 まだ疑問は残る これ以降、現在の地図を見ると石川島、現在の佃2丁目は月島から陸続きの土地と見えるだけで、島という雰囲気はまったくありません。 川の中州を自然島と判断してよいかどうかは議論がありますが、妙見島は江戸川の中州にもかかわらず自然島として認識されていることを考えると、石川島も自然島として問題ないでしょう。 中央区の佃2丁目(画像:(C)Google) 残る疑問は、現在の佃2丁目のどこまでが元の自然島だったかということです。さらなる調査をしてみようと思います。
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