大正生まれの作家も食べた憧れの洋食――昭和3年の銀座にお子様ランチが現れた理由【前編】

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大正生まれの作家も食べた憧れの洋食――昭和3年の銀座にお子様ランチが現れた理由【前編】

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昭和時代のデパートの食堂を象徴するメニュー、お子様ランチ。ところが昭和初期のお子様ランチはデパートの専売特許ではなく、銀座のレストランでも出されていました。そしてお子様ランチの前には、「大人様ランチ」が存在したのです。また、お子様ランチだけでなく、お子様寿司というものも存在しました。洋食大衆化の歴史書である『串かつの戦前史』において、お子様ランチの出現とその理由を書いた、食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。

お子様ランチのライスが型ぬきされていた理由

お子様ランチのイメージ (画像:photo AC)



 1923(大正12)年生まれの作家・池波正太郎は、子どものころつまり昭和初期に食べたお子様ランチについて、次のように記しています。
 
 “東京の下町に生れ育った私など、幼少のころに口へ入れた洋食というものは、近所の洋食屋のカツレツかカレーライスか、たまさか母親につれて行かれる上野・松坂屋のお子様ランチぐらいなものであった。”

 “さて、この〔お子様ランチ〕なるものに、かならず型でぬいたチキンライスがそえてあったものだ。いまもそうらしい。”(『完本池波正太郎大成 第29巻』1999年刊所収の「食卓の情景」より)
 
 型でぬいたご飯というのは、昭和初期からお子様ランチの定番だったようです。1927(昭和2)年生まれの作家・吉村昭が食べたお子様ランチのご飯も、型でぬいたものでした。
 
 “母に連れられてデパートの食堂に行くと、お子様ランチを注文する。食堂の女の人が、白い紙のエプロンをつけてくれる。トマトケチャップを入れていためた御飯が、富士山の形に置かれ、頂上に三角旗が突き立てられている。その旗を倒さぬように、少しずつ御飯をすくってゆく。”(吉村昭『味を訪ねて』2010年刊)

 さて、なぜお子様ランチのご飯は型にはめて整形しているのでしょうか?

 富士山のように子どもが見て楽しい形にするため、という理由もありますが、もともとは別の理由からだったのです。

お子様ランチの前に存在した「大人様ランチ」

 最近、東京の複数の店がお子様ランチの大人版、「大人様ランチ」を出すようになりました。

>>関連記事:大人だって食べたい! 誰でも注文OKな「お子さまランチ」 魅惑の東京都内5選

大人様ランチのイメージ(画像:photo AC)

 とんかつのチェーン店「かつや」が期間限定で大人様ランチを販売。銀座ライオングループも店舗により「大人様プレート」を提供。

 株式会社聚楽が経営する「須田町食堂 秋葉原UDX店」「じゅらく 上野駅前店」においても、「大人のお子様ランチ」が提供されています(いずれも2022年現在)。

 株式会社聚楽は、1924(大正13)年に創業した洋食チェーン店「須田町食堂」がその始まりですが、実はこの「須田町食堂」、創業初期から「大人様ランチ」を提供していました。

須田町食堂のランチ(画像:1931年12月号『婦人倶楽部』所収の「東京大衆食堂の自慢料理」より)

 この絵は1931(昭和6)年の須田町食堂の「ランチ」。戦前にはこの絵のような、大人向けのワンプレート定食を「ランチ」という名で提供する習慣が存在しました。お子様ランチとは、この大人用の「ランチ」を子ども用に翻案したものなのです。

 1894(明治27)年生まれの風俗研究家・植原路郎によると、「ランチ」は「合の子弁当」とも呼ばれ、明治時代から存在していました。そしてそのご飯は、型でぬかれていたのです。なのでその子ども版のお子様ランチのご飯も、型ぬきしていたのです。

 “合の子弁当 「洋食弁当」とも。米飯に洋風のおかずを添えた和洋ちゃんぽん、お手軽弁当。並弁は型でぬいた飯とおかずとを、並べて白い血に盛る。”(植原路郎『明治語録』1978年刊)
 
 “<ランチ>(Lunch 英)ランチョン(Lunchon)の略。 弁当、昼飯、間食の簡単な盛り合わせの昼飯用洋食弁当。かつては「合の子弁当」と称えたもの。ランチという言葉が食堂のメニューに使われ出したのは、大正中期以後であろう。”(植原路郎『食通入門』1971年刊)

大人様ランチがご飯を型ぬきしていた理由

 なぜ大人向けの「ランチ」はワンプレート定食で、ご飯を型ぬきしていたのでしょうか。

 それは創業当初の須田町食堂のような、安さを追求する大衆的チェーン店が、1銭でも安く提供するために重ねた工夫の結果なのです。

 ランチが一つの皿にサラダ、おかず、ご飯を一緒に乗せているのは、配膳や皿洗いを効率化することで、人件費を節約するためです。

 ご飯を型抜きしている目的は、ご飯がサラダやおかずに飛び散って汚く見えるのを防ぐことと、店員によって盛るご飯の量がブレるのを防ぐことにあります。

 『話』(1936年8月号)所収の宇田文治「本郷バー・須田町食堂争覇戰」によると、須田町食堂は1日最大12万人が利用した巨大チェーン店。ちょっとのご飯の量のブレが、巨大な利益のブレへとつながるのです。

 “東京神田神保町三省堂前の横丁にあった「おとわ」の「合の子」は「お弁当」と称し、二十五銭(大正七年)翌年二十七銭に値上げ。”(植原路郎『明治語録』1978年刊)

 ランチ=合の子弁当は、明治時代に創業した大衆的洋食チェーン店「おとわ亭」でも提供されていました。

 その「おとわ亭」を模倣したチェーン店が「本郷バー」、「本郷バー」を模倣したのが「須田町食堂」です。このあたりの大衆的洋食チェーン店の歴史については、拙著『串かつの戦前史』をご覧ください。

昭和3年の銀座に現れたお子様ランチ

 昭和3年の時事新報(1928年7月6日)の記事「食堂めぐり(14)」に銀座松坂屋食堂が取り上げられていますが、そこに「子供ランチ 四十錢」「御子様ずし 二十錢」が登場します。

 『食道楽』(1929年5月号)掲載の丘町草之助「大阪食堂行進曲」には、大阪の松坂屋で「お子供辯当(べんとう) 三十五錢」が出されていたとあります。

 昭和はじめの松坂屋のようなデパートでは、洋食だけでなく寿司や和食の弁当など、さまざまな大人向けメニューが子ども向けに翻案されていました。お子様ランチはその一例に過ぎなかったのです。

  また時事新報(1928年7月13日)の記事「食堂めぐり(16)」には、銀座のレストラン「銀座エスキモー」において「子供ランチ 五十錢」が出されていたとあります。お子様ランチはデパートの専売特許ではなく、銀座のレストランでも出されていたのです。

 なぜ昭和初期のデパートや銀座のレストランは、子ども専用の洋食や和食のメニューをそろえるようになったのでしょうか?(後編)に続きます。

>>【後編】路面電車が食文化を変えた!――昭和3年の銀座にお子様ランチが現れた理由

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