98年前の悲劇――関東大震災で消え去った幻の「鍋島本邸」をご存じか

  • 両国駅
  • 永田町駅
98年前の悲劇――関東大震災で消え去った幻の「鍋島本邸」をご存じか

\ この記事を書いた人 /

小川裕夫のプロフィール画像

小川裕夫

フリーランスライター

ライターページへ

今年も間もなく防災の日(9月1日)がやってきます。それを機に、関東大震災が残した爪痕について、フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。

「9月1日」の持つ重み

 間もなく9月1日を迎えます。9月1日は関東大震災(1923〈大正12〉年)が起きた日であり、それらを後世へと語り継ぐため、教訓とするために防災の日に制定されています。そして、全国の学校や職場では不測の災害に備えて防災訓練が実施されます。

 東京都慰霊堂(墨田区横網)は、関東大震災の死者と東京大空襲の犠牲者を慰霊する施設です。毎年3月10日には東京大空襲の、毎年9月1日には関東大震災の大法要が営まれています。

墨田区横網にある東京都慰霊堂(画像:写真AC)



 地震で家が倒壊してしまった被災者たちは、火の手から逃げなければなりませんでした。家財道具を背負い、逃げる場所を探していたのです。

 東京都慰霊堂は横網町公園内に建立されていますが、関東大震災が発生した1923年には陸軍被服廠(しょう)が移転して広大な空き地になっていました。そんなこともあり、多くの市民が陸軍被服廠跡地を避難場所として考え、東京市内から多くの被災者たちが集まりました。

 しかし、震災後に発生した火事は見る見るうちに広がり、陸軍被服廠跡地にも迫ります。多くの被災者が家財道具を持って避難していたことがアダとなり、集まった市民たちは容易には身動きが取れない状況になっていたのです。こうして陸軍被服廠跡地に避難してきた被災者たちは火の手に飲み込まれてしまいます。

 関東大震災の犠牲者のうち、陸軍被服廠跡地で亡くなった人は数え切れません。それらの経緯から、1930(昭和5)年に陸軍被服廠跡地に慰霊施設となる震災記念堂(現・東京都慰霊堂)が創建されたのです。

 震災記念堂の本堂は、東京帝国大学の教授も務めた建築家の伊東忠太です。現在、建築という言葉は一般的になっていますが、これは伊東が考案した造語です。それまで建築は「造家」と呼ばれていました。

永田町も襲った大震災

 明治建築界の大物は欧米の思想を学んでいたこともあり、日本の伝統建築は軽視されがちでした。

 しかし伊東は日本の伝統である寺院建築を再評価し、コンクリート工法など新たな技術と融合させることも試みました。和風でありながら、どこか西洋のような雰囲気を感じさせる震災記念堂は、そうした伊東の思想を詰め込んだ建築物といえます。

 陸軍被服廠跡地は下町に所在していたこともあり、関東大震災の被災状況は下町を中心に語られがちです。しかし、山手側でも大きな被害を出しています。

 関東大震災は東京都千代田区永田町にも容赦なく襲いかかりました。現在、首相公邸・官邸が立地する場所には、鍋島家の本邸がありました。鍋島家は佐賀藩最後の藩主であり、明治以降は侯爵として活躍しています。

1909(明治42)年測図の地図(左)と現在。鍋島邸の記載がある(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)



 震災当時、鍋島家の当主だった鍋島直映(なおみつ)はイギリス留学を経験し、教養人として知られていました。また、父・直大(なおひろ)もヨーロッパへの留学経験があり、明治天皇や政府内からの厚い信頼を寄せられていました。

 明治天皇から信頼されていた直大は、1870(明治3)年に永田町の屋敷地を下賜(かし)されました。そして1891年、同地に和風の日本館が、翌年には西洋館が落成しています。

 鍋島本邸の設計を担当したのは佐賀藩出身の建築家・坂本復経(またつね)です。坂本は工部省(現・国土交通省)で建築を担当し、その後に清水満之助商店(現・清水建設)で技術者として勤務しました。

 その経験を買われて鍋島本邸の設計を依頼されたわけですが、坂本は建設中に死去。そのため、唐津藩出身の辰野金吾が監督となって工事は進められました。

 辰野は、後に東京駅や日本銀行本店などを手がけることになる明治を代表する建築家です。優れた腕と抜きんでた建築知識を有していたので、明治政府からも重宝される存在でした。

 そのため、工事期間中に政府からヨーロッパ視察を命じられます。一時的に現場から離れることになったため、監督は片山東熊(とうくま)が代行することになりました。

震災後、渋谷松濤に移った鍋島本邸

 片山も明治を代表する建築家で、工部大学校(現・東京大学工学部)の同期生でした。片山は東京国立博物館の表慶館や東宮御所(現・迎賓館)などのデザイナーとしても知られています。

千代田区永田町にある首相官邸(画像:写真AC)



 永田町の鍋島本邸は坂本・辰野・片山といった明治を代表する建築家の知と力の結晶ともいえる素晴らしい建物でした。

 1892(明治25)年には鍋島本邸の落成を祝して、明治天皇・皇后による行幸啓(ぎょうこうけい。天皇と皇后が一緒に外出すること)が行われました。当時の首相だった松方正義、枢密院議長だった伊藤博文も列席し、華やかな晩さん会も催されています。また、天覧相撲も披露されました。

 しかし、永田町の鍋島本邸も関東大震災で倒壊。当時の資料や写真も多くが焼失してしまったため、鍋島本邸の詳細は数少ない資料からしか読み取ることができなくなっています。

 本邸を失った鍋島家は渋谷松濤の別邸に居住地を移しました。そして、その跡地に首相公邸・官邸が建てられたのです。

関連記事