沖縄本島から360km 絶海の孤島「大東島」はかつて東京の植民地だった!

沖縄本島から360km東に位置する南大東島。同島はかつて東京の植民地でした。その歴史について、紀行作家の斎藤潤さんが解説します。


沖縄本島から360km東に位置

 沖縄や島に詳しくない人でも、南大東島という名前は聞いたことがあるでしょう。そうです。台風シーズンになると、必ずのように天気予報の台風情報に登場する、沖縄本島のはるか沖に浮かぶあの島です。

――台風の中心は、南大東島の南南西150kmにあり、時速20kmのゆっくりした速度で、北北東へ向かっています。
――南大東島は、今日の午後から台風の暴風圏に入るものと思われます。

などと、台風の位置や進路を示すための基準点として使われています。

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 沖縄本島から360km東に位置し、8km北には兄弟島の北大東島があります。東京から八丈島までが300km弱なので、沖縄からそれより離れていることになり、まさに「絶海の孤島」と呼んでいいでしょう。

 日本の南海上をうろつく台風の位置や速度を計測するための、格好の場所にあるといえます。

国標の設置は1885年

 南大東島の所属は沖縄県で、県内最東端の地。しかし、歴史的文化的には複雑で、最初に住み着いて開拓に着手したのは、東京都八丈島の人たちでした。

南大東島の位置(画像:(C)Google)

 沖縄では古来「うふあがり島」(うふ = 大きい、あがり = 東)として知られていましたが、1885(明治18)年8月になり、沖縄県によって国標が設置され、ようやく同県(および日本国)の所属であることが明示されました。

 外国の漂着民が暮らした形跡などを除くと、これが公式記録に残る大東島(南北大東島)への上陸でした。

 明治時代になると、進取の気性に富んだ多くの日本人が、南の島に眠る資源を求めて雄飛し、莫大(ばくだい)な富を手に入れるようになります。

 伊豆諸島の南に位置する無人島の鳥島でアホウドリを乱獲し、その羽毛を外国へ売りさばくことによって巨万の富を手に入れた、八丈島出身の玉置半右衛門は全国の長者番付に名を連ねるほどの成功をおさめたのです。

島に多い八丈島系の名字

 全国でも屈指の実業家となった玉置半右衛門ですが、事業意欲は衰えません。所有船でハワイ、フィリピン、琉球諸島などを視察し、遠洋漁業出漁中に出会ったのが、大東諸島でした。

 最初に開拓に着手したのが南大東島で、1900(明治33)年上陸に成功。当初は羽毛採取が目当てでしたがアホウドリはおらず、農地の開拓に着手してサトウキビ栽培を試みました。

南北大東島ではケージに入りクレーンでつり下げられ上陸する(画像:斎藤潤)



 南北大東島ともに、八丈出身者が中心となって開拓をはじめましたが、その後は沖縄各地から開拓移民が流れ込みます。そのため、沖縄県では唯一本土(八丈島)と琉球の文化が混交した島になりました。

 それをよく表しているのが、浅沼・沖山・奥山・佐々木・菊池など、八丈島系の名字が多いこと。今でも、八丈島の親戚と交流がある家も多いそうです。

郷土料理にも深い関係性

 大東島の郷土料理として知られる大東寿司も、ルーツは八丈島の島寿司です。サワラやトビウオなど地魚のヅケを握ったもので、地元の宴席には欠かせません。

大東島の大東寿司(上)と八丈島の島寿司(画像:斎藤潤)

 ただし、八丈島の島寿司には洋カラシが使われますが、大東寿司はワサビです。

小笠原の固有種だった植物も

 また、北大東島には特殊植物群落があるため国の天然記念物に指定されている長幕(ながはぐ)という場所があります。

幕をハグと呼ぶのは八丈方言で、こんなところにも八丈人によって開拓された歴史が垣間見えます。

右手の急崖が長々と連なる地形を長幕と呼ぶ(画像:斎藤潤)

 ちなみに長幕を代表する特殊酒植物・ヒメタニワタリは、1972(昭和47)年に北大東島で発見されるまでは、東京都小笠原村母島の固有種とされていた希少植物です。

 小笠原自体が主に八丈移民によって開拓されたことを考えると、不思議なご縁を感じてしまいます。

開拓団には女性も参加

 鳥居があっても本土と異なる聖地(御嶽)があるのが沖縄の神社ですが、大東島には本土風の神社も作られています。そして、秋祭りには奉納相撲も行われるのですが、江戸相撲と沖縄角力(すもう)の両方が奉納されています。

大東太鼓の練習に飛び入りした観光客(画像:斎藤潤)



 芸能が盛んな沖縄なので、大東島でも小学校に上がる前から、歌や踊りを習っている子どもも多く、そんななかに大東太鼓の練習の励む子どもたちもいます。沖縄には大太鼓の伝統がなく、大東太鼓のルーツをたどれば八丈太鼓になります。

 玉置半右衛門たちの前に開拓を試みたが、島の周囲を取り囲む断崖絶壁に阻まれ、上陸すらできなかった人たちもいました。厳しい自然環境は今も変わっておらず、那覇から半日以上かけてたどり着く連絡船は、接岸することができません。

 沖に設置されたブイと陸上の係船柱の両方にロープをつなぎ、岸壁から数メートル離れた海上に船を固定し、人間や物資の積み下ろしは、陸側のクレーンでつり上げて行っています。

 全国でも南北大東島にしかない特異な上陸風景を見ていると、こんな過酷な無人島に取り付いて開拓に励んだ八丈人たちの熱意は、どこから生まれたのかと思ってしまいます。
 ちなみに、入植の翌年であり、20世紀初めの年でもある1901(明治34)年には、島で最初の子どもが生まれたそうです。困難極まる開拓団には、女性も参加していたのです。


【画像】南大東島の内部(21枚)

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