近代東京を作った立役者「三島通庸」はかつて渋沢栄一を殺そうとしていた【青天を衝け 序説】

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近代東京を作った立役者「三島通庸」はかつて渋沢栄一を殺そうとしていた【青天を衝け 序説】

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小川裕夫

フリーランスライター

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“日本資本主義の父”で、新1万円札の顔としても注目される渋沢栄一が活躍するNHK大河ドラマ「青天を衝け」。そんな同作をより楽しめる豆知識を、フリーランスライターの小川裕夫さんが紹介します。

「一橋家臣編」で広がった渋沢の行動範囲

 渋沢栄一を主人公とするNHK大河ドラマ「青天を衝け」は、5月2日放送回までは埼玉県を舞台とする血洗島・青春編でした。5月9日放送回からは、一橋家臣編が始まっています。

2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』のウェブサイト(画像:NHK)



 血洗島・青春編と一橋家臣編で違いは多々ありますが、なによりも大きく違っているのが渋沢の行動範囲です。渋沢家は藍玉の生産・販売を手がけていたこともあり、上州や信州などに藍葉を買い付けに行き、江戸へと販売に出掛けることは珍しくありませんでした。そのため、通常の農民と比べても行動範囲は広いといえます。

 しかし、血洗島・青春編は渋沢の生家を中心に物語が展開したこともあり、舞台の中心は武蔵国でした。対して、一橋家臣編では草彅剛さん演じる一橋慶喜に仕え、慶喜が朝廷との交渉窓口となっていたことから渋沢も京都に滞在しました。そのため、京都を中心にストーリーが展開されています。

 幕末期、幕府が置かれた江戸は大都市として発展を遂げていました。一方、大坂も商人の町として経済的に発展し、江戸と比肩するほどのにぎわいを見せていました。

 大坂は京都が近いという立地的な面からも重要視され、薩摩藩や土佐藩、中津藩などが屋敷地を構えていました。土佐出身の岩崎弥太郎、中津藩出身の福沢諭吉も幕末期に大坂で生活を送っています。

『青天を衝け』でも、西郷隆盛や大久保利通といった明治維新で活躍する重要人物が多く大坂に滞在している様子が描かれています。作中では、あまり目立つように描かれ方はされていませんが、松村龍之介さんが演じる三島通庸(みちつね)は明治以降の東京をつくった立役者でもあります。

 渋沢は薩摩藩の動向を探るべく大坂に潜り込んでスパイ活動をするわけですが、当時の薩摩藩と一橋家は意見の相違から非常に険悪な間柄にありました。そのため、三島は大久保と謀って渋沢を亡き者にしようと機会をうかがっていた時期がありした。しかし、明治新政府が発足すると両者の関係は好転していきます。

銀座大火後に始まった銀座煉瓦街の建設

 1872(明治5)年、江戸城の和田倉門から出火。火の手は見る見るうちに銀座を焼き尽くしました。銀座大火と呼ばれる火事は、発足したばかりの明治新政府には大打撃となります。

 長州藩出身で明治新政府の首脳だった井上馨は、銀座の再建策として街を西洋風のレンガ造りにすることを発案。井上主導で銀座煉瓦(れんが)街の建設が始まりましたが、このプロジェクトを現場で取り仕切ったのが渋沢と三島でした。

銀座煉瓦街の面影を今に伝える「煉瓦遺構の碑」が銀座の片隅に残されている(画像:小川裕夫)



 大火によって焼失した街の再建という名目で銀座煉瓦街をつくるわけですから、家屋には第一に不燃化が求められました。

 それまでの銀座は木造家屋が並んでいましたが、大通りに面した区画は木造家屋を禁止。木造家屋に代わって、見た目も華やかなレンガ造りが立ち並んできます。

 大通りに面した商店が次々とレンガ造りになったことで、銀座は文明開化の象徴のような街になりました。レンガ造りの建物を目にしたことがある人たちは少なく、ゆえに物珍しさも手伝って銀座は多くの買い物客でにぎわうようになります。

山形の地に増えた擬洋風建築

 銀座煉瓦街のプロジェクトを終えた三島は、1874年に酒田県令を命じられます。酒田県は鶴岡県を経て1876年に山形県に統合されますが、三島は県令時代に西洋風の建物を山形で多く建てました。

 西洋の文明が入るようになってきたとはいえ、鶴岡は東京や開港場の横浜・神戸と比べると外国との接点が少なく、山形には西洋風の建物はありませんでした。

 三島は県令という立場から強権的に西洋風の建物をつくることを命じます。しかし、命じられた大工・職人は西洋建築をつくった経験がないこともあり、手探りで西洋風建築に取り掛かります。

 そのため、外観は西洋風ながら純粋には西洋風といえない建築物があちこちに誕生。これらの時期に建設された西洋風の建築物は、後世の建築史家から擬洋風建築と呼ばれます。

 1876年に山形県令に就いた三島は、山形市内でも引き続き擬洋風建築をつくろうとします。三島の政策を建築技師として支えたのが同じ薩摩藩出身の原口祐之でした。

山形市内に残る数少ない三島が建設を主導した擬洋風建築の山形県立博物館教育資料館。同館は旧山形師範学校本館(画像:小川裕夫)

 三島は強権的だったこともあり、現地の人たちから反発を買うことも少なくありませんでした。原口は地元民との間に入り、彼らの気持ちをくむことにも心を砕きました。折衝役としても優れていいた原口ですが、技師としての才能も一流でした。

警視総監として東京に戻った三島

 原口は三島から西洋風の病院を建てるように命じられると、横浜にあったイギリスの海軍病院を視察。その経験をもとにして、原口は現代から見ても斬新的なドーナツ型の病院を設計したのです。

 原口が設計した旧済生館病院本館は、ドーナツ型の病院は八角形と十六角形を組み合わせた3層構造のドーナツ型になっていました。そんな奇妙な形状になったのは、横浜のイギリス病院を参考にしたからです。

霞城公園内に移築された旧済生館本館(画像:小川裕夫)



 横浜に建てられたイギリスの海軍病院は、敵の砲撃から守る目的があったことから全方位を見渡すことができるドーナツ型になったようです。

 原口はそのままトレースしたわけですが、ユニークな構造から旧済生館病院本館は長らく山形市民に愛される存在でした。

 三島は山形で西洋風建築を多く建てた後、その手腕が評価されて福島県令、栃木県令に任命されます。栃木県令時代には、農作業に不向きとされていた那須野が原の開拓を率先的に手がけました。荒野を農地へと替える試みは、日本の国力増強にもつながる政策でした。

 先見の明があった三島の那須野が原開拓は、明治新政府の首脳の心も動かし、西郷従道・山県有朋・松方正義などが続々と那須野が原に農場を開設していくことになりました。
 1885(明治18)年、三島は警視総監として東京に戻ってきます。しかし、その後は病に倒れてしまい、警視総監在任中の1888年に没しました。享年54歳でした。

 三島の長男である彌太郎は第8代日本銀行総裁を務め、5男の弥彦は日本初のオリンピック選手として活躍し、その様子は2019年の大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」でも描かれています。

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