お魚イメージが強い「築地」 実はかつて海軍で栄えた土地だった!

一般的に「築地 = 魚の街」ですが、かつてはそうではありませんでした。代わりにあったのは海軍関連施設。フリーライターの大居候さんが解説します。


築地は日本海軍発祥の地

 2018年10月、築地市場は紆余(うよ)曲折を経て閉場しました。それから2年半あまりがたち、周囲の風景は次第に変わりつつあります。

 閉場の翌月には環状2号線が通る築地大橋が開通し、周辺の道路も次第に整備が進んでいます。この橋からは築地市場跡地をのぞくことができますが、古めかしい市場の建物群は巨大な空き地になり、オリンピック・パラリンピックの車両基地になる予定です。

 さて、築地といえば一般的に「魚の街」というイメージが強いのではないでしょうか。しかし、かつてはそうではありませんでした。築地のイメージは海軍。なにしろ日本海軍発祥の地なのです。

築地の成り立ち

 築地と海軍の関係を語るには、まずその成り立ちを説明しなくてはいけません。

 もともと築地は、江戸時代の1657(明暦3)年に発生した明暦の大火後に計画された、隅田川河口の工事によって作られました。築地という言葉自体が埋め立て地を意味し、それがそのまま地名となったのです。

中央区築地(画像:(C)Google)



 この土地で最も重要だったのが、現在の築地本願寺(中央区築地)です。本願寺はもとは現在の日本橋横山町から東日本橋にかけての場所にあり、「江戸海岸御坊」「浜町御坊」と呼ばれていました。

 しかし大火の後に同地での再建を許可されなかったため、築地へ移転してきたのです。土地の埋め立ては佃島の門徒が中心となり、江戸時代は「築地御坊」と呼ばれていました。現在とは異なり、築地市場側が正面で門前町が広がり、そのほかは武家地になっていました。

 中でも築地市場の正門があった周囲は老中・松平定信が数寄を凝らした庭園「浴恩園(よくおんえん)」をしつらえて評判になっていました。その景勝はすばらしく、江戸時代を代表する名園とされていました。

海軍との関わりは江戸末期から

 築地と海軍が関わるのは江戸末期のことです。

 外国船の来航で軍制改革が迫られるなか、ペリーの来航を受けた幕府は1854(安政元)年、旗本・御家人に剣術・槍術(そうじゅつ)・砲術などを学ばせるために、浜離宮の南側に講武所(武芸訓練機関)を設けました。

 同時期に幕府は海軍力の強化を図り、1855(安政2)年に海軍教育を施す長崎海軍伝習所を設けています。これに続いて1857年、講武所に軍艦教授所が設けられました。この組織はさらに軍艦操練所と改称されて、長崎海軍伝習所に代わって幕府の海軍教育の中心を担うことになります。

軍艦操練所跡(画像:(C)Google)



 現在、晴海通り沿いには「軍艦操練所跡」の説明板が立っていますが、その敷地は築地市場の地域をほぼ使った広いものでした。当初は幕臣を対象にした教育が行われていましたが、後に諸藩からの人材も受け入れ、外国人教師も使って、航海術や水練、蒸気機関の取り扱いなどが熱心に行われました。

 1864(元治元)年に火災に遭うもすぐに再建。1866(慶応2)年には「軍艦所」と改称し、教育だけでなく海軍の業務全般を扱う「海軍所」に改称されています。しかし1867年にはまた火災に遭い、施設は浜御殿(現・浜離宮)に移転しました。

海軍のエリート教育が行われた築地

 明治になり、新政府は築地に海軍関連の機関を次々に設置します。

 始まりは1869(明治2)年に広島藩の屋敷を使った海軍操練所からでした。この組織は翌年には海軍兵学寮に改称。1876年には海軍兵学校となります。のち1888年に江田島に移転するまで、海軍のエリート教育はこの築地で行われていました。

 銀座から築地に抜ける道路に「みゆき通り」がありますが、これは海軍兵学校があった時代に明治天皇が行幸(ぎょうこう、みゆき)に使う道だったことに由来しています。命名は、1940年東京オリンピックの前にされました。

 現在の国立がん研究センターの敷地には海軍軍医学校もありました。現在は、海軍兵学寮跡とともに碑が建っています。海軍軍医学校は1873年に海軍病院付属学舎として設立、その後組織改編を経て、1908年に築地にやってきました。

海軍経理学校の碑(画像:大居候)

 もうひとつ海軍経理学校も1888年の設立後、1907年に築地にやってきました。学校の校舎は1932(昭和7)年に勝どき橋のそばに新築された経緯からか、現在は勝どき橋のたもとに碑が建っています。

海軍省も一時設置

 そんな築地ですが、これらを統括する海軍省も築地に一時置かれていました。海軍省は1872年に兵部省から分離して設置されましたが、庁舎は1882年に芝に移転するまで築地に置かれていました。

 その時期、前述の浴恩園の築山に海軍卿旗が掲げられ、「旗山」と呼ばれていました。この山は築地市場があった頃、水神社遥拝(ようはい)所となっていた山です。築地市場があった頃には、自由に参拝できましたが、移転にあたって水神社も遷座したので、今は見学することはできません。傍らにあった「旗山」と書かれた石碑とともに、どのように保存されていくのか気になるところです。

水神社遥拝所(画像:(C)Google)



 実は、現状を確認しようと市場跡地の外から見てみたのですが、確認できませんでした。まさか、なくなってはいないと思いますが……。

 なお地域の歴史に詳しい人に聞いたところ、水神社の築山は別のところにあったものを移動させて作り直したという真偽不明の情報もあるようです。

謎の「八紘一宇の碑」

 謎も含んだ日本海軍発祥の地である築地ですが、そのほかにも晴海通り沿いには「八紘(はっこう)一宇」と記された碑があります。「八紘一宇」は太平洋戦争中に広く使われたスローガンです。

八紘一宇の碑(画像:大居候)

 碑文を見ると1940(昭和15)年頃に地元の青年団によって建立されたことがわかります。ただ、どういう経緯で建立され現在まで残っているのかはわかりません。

 同様の碑は皇紀(神武天皇即位起源)2600年を記念して全国各地で建立されましたが、太平洋戦争後には多くが撤去されました。そうしたなか、この碑が残ったのはどういう経緯だったのでしょうか。

今なお多くの謎が眠る築地

 中央区の郷土史を詳細に掲載している「中央区観光協会特派員ブログ」でも海軍との関連性を指摘しています。中央区の郷土史に詳しい人に尋ねてみたところ「あのブログでわからないと書いているなら、本当にわからない」とのこと。

 ただ1947(昭和22)年頃の航空写真を見ると、八紘一宇の碑のすぐ近くは橋と川です。今は路傍にポツンと建っている碑ですが、かつては橋のたもとに目立つようにあったのかもしれません。

1947年頃の築地の航空写真(左)と現在の航空写真。カーソルの位置に八紘一宇の碑がある(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)

 明治以来の百数十年の間に海軍から魚河岸へと多彩な歴史を刻んできた築地。またまだ謎はいっぱい眠っているようです。


【画像】明治初期、海軍省があった頃の築地

画像ギャラリー

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