中央区「聖路加病院」はかつてインスタ映えスポットだった?

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中央区「聖路加病院」はかつてインスタ映えスポットだった?

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真砂町金助

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聖路加国際病院はかつての「インスタ映え」ポイントだったかもしれません。フリーライターの真砂町金助さんが解説します。

威容を誇っていた聖路加病院

 築地(中央区)はかつて、川に囲まれた町でした。そこには、今の言葉でいうところの「バエる」風景がありました。

 1947(昭和22)年に発売された、藤山一郎のヒット曲『夢淡き東京』には

「輝く聖路加か」

という一節があります。

中央区明石町にある聖路加国際病院(画像:真砂町金助)



 この聖路加とは、現在の聖路加国際病院(同区明石町9)の旧病院棟を指しています。旧病院棟は1933年に完成したチャペル付きの建物。平成に入って再開発が行われることになり当初は取り壊される予定でしたが、価値を見直され、中央部分だけが保存される結果となりました。保存部分は現在、東京都選定歴史的建造物となっています。

 旧病院棟は夜になるとライトアップされていますが、残念ながら日中は街の風景に埋没しています。歴史的な建造物には間違いありませんが、どこか目立たない印象です。

 ところが過去の文献で往時の写真を見ると、印象はガラリと変わります。中央にチャペルを備えたその姿は、とても威容を誇っているからです。

かつては川べりに建っていた病院

 なぜそのように見えるのでしょうか。それは川の存在があったから。現在は周囲を道路に囲まれ、正面が公園となっていますが、かつての旧病院棟は川べりに建っていました。

1967(昭和42)年発行の地図(左)。聖路加病院の近くを川が流れている(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)

 聖路加国際病院の傍らに流れていたのは、築地川という川でした。この川は本流のほか、東支川・南支川というふたつの分流から成っており、明暦の大火(1657年)発生後の埋め立てで築地が造成されたときにできた堀割(ほりわり。地面を掘ってつくった水路)です。

 旧病院棟の周囲には高い建物がなかったため、遠くからでも見ることができました。だから「バエた」のです。なお、築地川の名は築地川公園(明石町10)に残っています。

ベストの「バエる」ポイントはどこだった?

 現在はもう「バエる」風景を見られないのでしょうか。かつての風景を思い浮かべながら、現地を尋ねてみることにしました。

 銀座方面から歩いていくと、聖路加国際病院の手前、築地側を渡るところに暁橋という橋がかかっていました。築地川公園の場所にはかつては橋がかかっていたことを示す案内板も建っています。

 ここから南側、築地方面には堺橋もかかっており、川が流れていたときには空が開けていたことが想像できます。

聖路加国際病院周辺の地図(画像:(C)Google)



 地図内の「1」から見ると、左側に再開発後に建設された建物が建築されているので、チャペルの部分は見えるものの、建物の全体像を捉えるのが困難です。かつての旧病院棟は、築地側に向けて東側と南側は建物がなく開けていたので、銀座から歩いてきて暁橋に建つと、病院の建物全体を見ることができたのでしょう。

 旧病院棟から見て道路を挟んだ南側、今は薬局などが入っているビルが立ち並んでいますが、戦後間もなくの地図を見るとほとんどは個人宅です。町の風景としては、銀座の騒がしさが途切れて下町のような風景が始まるところに、立派な病院が建っていた――というものだったのでしょう。

 さてここから築地川は分岐して、支流が東へ流れていきます。その支流の部分はほぼ、現在のあかつき公園(築地7)の敷地と一致します。公園にするなら、わざわざ埋め立てなくてもよかったのではと思いますが、高度成長期の都市開発において、都市部の川はそれほど「無用の存在」と見られたのです。

 現在は公園になっている川の上を東に歩くと、築地方面につながっている南明橋へと至ります。かつてチャペルの十字架は川の上、あるいは対岸から見られたのかもしれません。地図内の「3」はベストの「バエる」ポイントだったと考えられますが、現在はビルに遮られてまったく見えません。

 そうして歩いているとさらいに良いポイントがありました。それが地図上の「2」のあたりです。

歴史ある記念碑もあった

 周辺には現在、保健所のほか、郷土資料館やプラネタリウム、子育て支援施設の入ったビルが建っています。過去の地図を見ると、戦前から保健所のほか授産所、保育園があるので、古くからの伝統ある社会福祉施設が立地する場所のようです。

 ここから旧病院棟のほうを見ると、建物の全体像もわかりますし、なかなか「バエる」風景です。道路が分岐するところに中島があるので、視界が開けているためでしょうか。この中島には「日本近代文化事始の地」の記念碑が建っていますが、戦前の地図でも現在と同じような形状が確認できるので、意外に歴史ある人工物のようです。

「日本近代文化事始の地」の記念碑(画像:真砂町金助)



 そんなわけで、旧病院棟の周辺には往時をしのばせるような風景を見つけることができました。皆さんも一度散歩してみてください。

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