山手線「大塚駅」から少し離れた文京区にも「大塚」がある理由

山手線「大塚駅」周辺だけでなく、少し離れた文京区にもなぜか「大塚」の地名があります。いったいなぜでしょうか。フリーライターの弘中新一さんが解説します。


豊島区と文京区にまたがる「大塚」

「大塚」と聞いて、皆さんがまず思い浮かべるのは山手線の大塚駅周辺でしょう。次いで、丸ノ内線の新大塚駅周辺でしょうか。なお大塚駅は豊島区に、新大塚駅は文京区にあります。

 このように、大塚という名は豊島区と文京区の双方に存在しています。地名では豊島区に

・北大塚
・南大塚

があり、文京区に

・大塚

があります。

文京区大塚(画像:(C)Google)



 文京区大塚の北側に南大塚が、大塚駅を挟んで南大塚のさらに北側が北大塚という位置関係になっています。駅の南北にそれぞれの大塚があるのなら、いいのですが、なぜこんな奇妙な位置関係になっているのでしょうか。

大塚駅の位置が原因だった

 結論から書くと、その理由は山手線の大塚駅が現在の位置にできたためです。

 大塚駅は1903(明治36)年4月、日本鉄道(日本最初の民営鉄道会社。現・山手線、東北本線、常磐線など)の駅として開通しました。当初、日本鉄道が計画していた山手線のルートは現在と異なっており、南西にある目白駅から、線路が北東に曲がって巣鴨駅方面へと向かうものでした。

 この計画通りであれば、現在の文京区大塚を通過していたのですが、さまざまな事情で現在のルートに変更されます。このため大塚駅は文京区大塚とは別の、現在の位置(豊島区南大塚)に建設されることになったのです。

 大塚駅の所在地は当時「巣鴨村大字巣鴨字宮仲」といいました。そのため建設時は宮仲停車場としていましたが、開業時は大塚停車場となったのです。そう、文京区大塚とはかけ離れた場所に大塚の名前を冠した駅ができてしまったのです。

1909(明治42)年に測図された地図。上部に「宮仲」の記載。下部、現在の文京区大塚付近に「大塚辻町」の記載がある(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)

 このようになった理由は、現在の文京区大塚が東京市小石川区に属していたためと考えられています。

 小石川区の成立は1878(明治11)年11月ですが、この次点で現在の文京区大塚は小石川区に含まれていました。そのため、駅の場所が変わったとはいえ、付近でよく知られている大塚という地名をつけたというわけです。

 小石川区のなかに大塚を冠した地名は

・小石川大塚窪町
・小石川大塚町
・小石川大塚坂下町
・小石川大塚仲町
・小石川大塚上町
・小石川大塚辻町

がありました。

 一方、巣鴨村は西巣鴨町を経て、1932(昭和7)年に豊島区となります。この次点で大塚駅のある現・南大塚3丁目は、巣鴨7丁目に属していました。住所は巣鴨でしたが、当時は駅周辺を指して、俗に大塚と呼ぶようになっていたようです。

俗称から正式な地名へ

 これは、山手線の品川駅が港区にあるにもかかわらず、駅周辺が品川と呼ばれることや、目黒駅が品川区にあるにもかかわらず、駅周辺がすべて目黒のように考えられていることと似たようなものです。

 この俗称だった大塚が住居表示の実施によって、1970(昭和45)年1月をもって正式な地名(北大塚・南大塚)となります。この時点で、文京区では既に住居表示を実施しており、文京区大塚1~5丁目が誕生しています。

1967(昭和42)年に発行された大塚駅前の地図(上)と、1977(昭和52)年に発行された地図。地名が変わっている(現在の(画像:国土地理院、時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)



 俗称を正式な地名にすれば、かねての地名といさかいが起こりそうなものです。しかし、文京区が困惑したかのような資料は探した限りでは見当たりませんでした。

 一方、豊島区にとって北大塚・南大塚の地名が誕生することは大歓迎でした。なにしろ国電の駅として知名度はあるにもかかわらず、周囲の地名は巣鴨6~7丁目と西巣鴨2・3丁目。隣に巣鴨駅が存在することもあって、巣鴨6丁目に用がある人も間違って巣鴨駅で降りてしまうこともあり不便だったからです。

 地名度のある駅名に合わせた地名にするとともに、当時の『豊島区広報』1968年8月号によれば

「とくに、駅の南口北口にあわせわかりやすくするために路線を境に南大塚、北大塚と分けました」

としています。

町の境界が複雑に入り組んでいた豊島区

 このように豊島区は23区のなかでも、住居表示をしないと立ち行かない区だったことから、住民は「はやくどうにかしてほしい」という状態でした。

 というのも、もともと田畑だったところが市街地化したため、町の境界が複雑に入り組んでいたのです。『広報としま(この年から改題)』1969年10月号の巣鴨地区の住居表示実施を知らせる記事には次のように書かれています。

「山手線と白山通りをまたいだ町、また巣鴨五丁目と二、三、四丁目の境界線が家の床下を走り、ノコギリの刃のように入りくみがはげしいところで、地元民でさえ全くわからないという町の状態でした。それは明治二十三年町村制施行のときの町区域が、市郡合併後も引き継がれ、いまにまで続いたためです。それから八十年、やっと法律で町区域を整理してわかりやすくしたのです」

 区役所の広報は通常、情報だけを無機質に知らせるものですが、これには書き手の抑えられない感情がこもっています。

豊島区北大塚・南大塚(画像:(C)Google)



 複雑な境界を整理した結果として生まれた豊島区北大塚・南大塚。その後も豊島区の住居表示の実施は続けられ、1989年に池袋3丁目、西池袋4~5丁目、要町1~3丁目などの住居表示実施によってようやく完了を見ています。


【画像】明治初期「大塚駅周辺」の様子

画像ギャラリー

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