スパイスの香り漂う新宿・大久保――東京は本当に多文化な街? 都内「外国人人口」から考える

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スパイスの香り漂う新宿・大久保――東京は本当に多文化な街? 都内「外国人人口」から考える

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大野光子

立教大学社会学部メディア社会学科助教

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グローバル化にともない、海外から多くの外国人労働者が流入している日本。そんななか、日本は多文化化しているのでしょうか。立教大学社会学部メディア社会学科助教の大野光子さんが解説します。

魅惑の新宿・大久保エリア

 皆さんは、東京・新宿歌舞伎町と隣接する大久保に行ったことがあるでしょうか?

 インド・ネパール・タイ料理など、スパイスの効いたアジアの食事をこよなく愛する私(大野光子、立教大学社会学部メディア社会学科助教)は、日本のスーパーマーケットでなかなか手に入らない現地のスパイスや食材を手に入れるため、大久保のハラルフード(イスラム教の戒律に沿った食べ物)を扱うショップに足しげく通っています。

大久保のハラルフードを扱うショップ(画像:大野光子)



 大久保は、ハラルショップのほかにも各国の食材を専門で扱う小さなお店が軒を連ねており、さながら日帰りの海外旅行をしている気分が味わえます(しかも複数の国!)。

 このような大久保を見ていると、「日本も多文化化している」と感じますが、実際はどうなのでしょうか。まずは、外国人人口から考えてみましょう。

日本の在留外国人の数は約293万人

 バブル経済を背景として、日本の外国人人口は1980年代後半から1990年代始めにかけて急増しました。

 この時期、日本の好景気に引き付けられて、主に近隣のアジア諸国から日本での労働を目的とした大量の外国人が流入。その後、1989年に入管法が改定し、「研修」の在留資格が加わり、中国からの技能実習生が大幅に増加します。さらに同改定では就労に制限のない「定住者」の在留資格が創設され、主にブラジルやペルーからの日系人が労働者として来日するようになりました。

 このようなことを契機として、日本の外国人人口は増加の一途をたどり、2015年に200万人の大台を超えました。

車の修理を行う外国人労働者(画像:写真AC)

 その後、2011年3月の東日本大震災の直後は一時的に減少しますが、日本の外国人人口は右肩上がりに増加を続けてきました。

 法務省の統計によると、2019年12月末日の在留外国人の数は約293万人、総人口に占める割合は約2%で過去最高となっており、このわずか4年間で100万人に近い増加があったことがわかります。

「2%」は多いのか、はたまた少ないのか

 さて、外国人人口が300万人の大台を超える日も現実味を帯びてきたわけですが、この総人口に占める割合2%という数字を聞いて、「意外と少ない」と思う人も多いのではないでしょうか。

 ヨーロッパやアメリカなど歴史的に移民を受け入れてきた国と比較すると、日本の外国人人口は多くありません。それでも右肩上がりの増加を反映して、近年国内の外国人人口は政策、学術の両面で重要なトピックとして議論され続けてきました。

 では次に、東京の外国人人口について見ていきましょう。次の表は「東京都区部別外国人人口と総数に占める割合」を示しています。

東京都区部別外国人人口と総数に占める割合(画像:大野光子)



 表を見るとまず、

・東京都の外国人の80%以上が東京23区内に居住していること
・各区の外国人比率はおおむね3~5%で、新宿区と豊島区は10%を超えること

がわかります。そしてこれらから、新宿区と豊島区に外国人が集住している様子がわかります。

 東京都の中でも新宿区は外国人住民の数、比率ともに最も高い場所ですが、冒頭で挙げた大久保はどうでしょうか。

 厳密には「大久保」という行政区画はありませんが、一般的に大久保と言えば、山手線「新大久保駅」と総武線「大久保駅」を中心に広がる地域で、町名では大久保1~2丁目と百人町1~2丁目に広がるエリアを指していることが多くなっています。

大久保は「3人にひとり以上が外国人」

 次の表は「大久保と周辺地区の外国人人口と比率」を示しています。

大久保と周辺地区の外国人人口と比率(画像:大野光子)



 表を見てわかる通り、その比率は非常に高く、各地区ではおおむね20~40%となっています。

 特に「大久保」の外国人比率は高く、どの地区も30%~40%を超えています。つまり、大久保の人口構成は、「3人にひとり以上が外国人」というところまできているのです。

 また新宿区全体の外国人人口から見ると、大久保と周辺地区の7区画に新宿区全体の外国人人口の3分の1以上が居住していることがわかります。

 さて、外国人人口について、これまで日本、東京、そして大久保とエリアを絞って見てきましたが、そこからわかったのは、外国人の集住地域は「東京の一部」に出現していることです。

 東京はグローバルシティーと呼ばれ、グローバル経済の中心地として世界に知られています。しかし、グローバル化の影響を受けた国際的な人の移動や人口の多文化化は、日本や東京の「あちらこちら」で起きているのではなく、ある特定の地域にモザイク状に色濃く反映されているのです。

歌舞伎町との関係性

 大久保が現在のような外国人の集住地域になったのは、都市化と郊外化という社会変動過程が深く関係しています。

 東京は1950年代中頃から高度経済成長を背景として、未曾有(みぞう)の都市化を経験しました。この時期、仕事を求めて地方からの若年移住労働者が東京の都心部に大量に流入しましたが、もちろん大久保に隣接する歌舞伎町もその例外ではありませんでした。

現在の歌舞伎町(画像:写真AC)

 歌舞伎町は1957(昭和32)年に完成しましたが、日本はその頃、すでに高度経済成長期に突入しており、東京の一大歓楽街の歌舞伎町に仕事を求めて大量の人たちがやってきました。大久保で調査を行う稲葉佳子(法政大学大学院兼任講師。NPO法人かながわ外国人すまいサポートセンター理事)によると、次のように記されています。

「地方から上京し、歌舞伎町に流れ込んだ若者たちは、働く場所はあっても住まう場所がなかった。職安通りを渡ればすぐ歌舞伎町という大久保地区の立地は、深夜遅くまで働く彼ら・彼女らにとって、歩いて通える住まいを確保するには絶好の位置にあったのである」(稲葉,2008,p.54)。

 この状況を反映して大久保では、家賃の安い木造アパートの建設ラッシュが始まります。1950~70年代、大久保に「木賃(木造賃貸共同住宅の略)ベルト地帯」と呼ばれるエリアが出現していたことが記されおり(前掲書,p.55)、この頃の大久保は、地方からの移住労働者の居住地としてその都市機能が担保されていた様子がよくわかります。

大久保はグローバル化の最先端エリア

 さて、このように1950~70年代までの大久保は国内の移住労働者の集住地域であったわけですが、郊外化が始まる1965年頃から徐々にその様相は変化します。

 都心部の脱工業化などを背景として、いったんは都心に集まった労働者が郊外へ移住を開始。さらに1980年代後半のバブル経済を背景とした都心の地価高騰が不動産価格を押し上げたことで、多くの人が郊外への移転を余儀なくされ、都心部の人口は郊外へ流出し続けてゆくのです。

 このような郊外化の影響で大久保の木賃ベルト地帯もいつしか姿を消し、残った安価な木造アパートに外国人労働者が入ってきたわけです。

大久保のハラルフードを扱うショップ(画像:大野光子)



 冒頭で触れた通り、日本の外国人人口はバブル経済を背景として1980年代後半に急増しました。日本での労働を目的として大量の外国人がやってきますが、歌舞伎町には、ホステスやダンサーなどとして働く外国人女性がとても多く、隣接する大久保はそのような人びとの居住地として重宝されるのです。

 そしてその後大久保には、アジア各地のエスニック料理のレストランや食材店が続々とオープンし、1990年代中頃までにはエスニック・タウンなどと呼ばれるようになり、現在の外国人集住地域としての大久保の姿を表します。

 大久保以外にも池袋、高田馬場、西葛西、そして群馬県の大泉町、埼玉県の蕨市など、東京やその近郊には外国人の集住地域が出現しています。グローバル化の最先端を体験しに、東京を旅するのもきっと面白いでしょう。

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