戦国時代、東京都内で唯一「城攻め」が行われた場所が八王子にあった

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戦国時代、東京都内で唯一「城攻め」が行われた場所が八王子にあった

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内田宗治

フリーライター、地形散歩ライター、鉄道史探訪家

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関西地方や中部地方のイメージが強い戦国時代の合戦ですが、現在の東京都内で唯一、壮絶な城攻めが行われた地があります。八王子城です。同城の魅力について、旅行ジャーナリストの内田宗治さんが解説します。

築城主は北条氏照、現在は「日本100名城」に

 戦国時代の合戦で有名なものの多くは、関西地方や中部地方で行われています。

 天下分け目の戦となった関ヶ原の戦い(1600年)、織田信長が今川義元を奇襲した桶狭間の戦い(1560年)、信長が鉄砲隊を率いて武田騎馬軍団を破った長篠の戦い(1575年)、上杉謙信と武田信玄の川中島の戦い(1553~1564年)、江戸幕府が大坂城を攻め豊臣家を滅ぼした大坂の陣(1614~1615年)など皆、関西・中部地方です。

 あまり知られていないのですが、東京都内で1か所、戦国時代に多くの軍勢によって壮絶な城攻めが行われた地があります。豊臣秀吉が関東制圧のため北条氏を攻めた戦いのひとつ、八王子城攻めです。八王子城(八王子市元八王子)は、現在のJR中央線高尾駅の北西約3kmにある山城です。

八王子城御主殿跡への橋。写真奥の石段を登った先が御主殿跡。2020年9月撮影(画像:内田宗治)



 攻め手は、秀吉配下の前田利家、上杉景勝、真田昌幸といった武将たち。歴史好きの人なら言わずと知れた面々で、前田利家は加賀百万石前田氏の祖となる人物、上杉景勝は謙信の養子です。真田昌幸は知将として名高く、2016年NHK大河ドラマ『真田丸』では草刈正雄が演じたことで記憶に残る人もいるでしょう。

 八王子城を守る側は北条氏です。北条氏は関東地方一帯(北部などを除く)を領土としていました。本拠は小田原城で、八王子城は支城(本城のほかに領内各地に設けた城)にあたります。

 八王子城は優れた縄張り(城郭の設計)により、現代では「日本100名城」に選定されています。築いたのは小田原北条氏3代目・北条氏康の三男、北条氏照です。

次々と現れる曲輪

 八王子城の構造を見ておきましょう。

 本丸は標高446mの城山山頂に造られ、そこから標高差で約180m下の山裾に、御主殿(ごしゅでん)と呼ばれた北条氏照の居館など、その東側に小規模な城下町が広がっていました。

八王子城御主殿跡。北条氏照の居館の遺構が復元されている。2020年9月撮影(画像:内田宗治)



 本丸へは現在も登ることができます。攻め手の気持ちになって、この山道を登ってみましょう。

 すると、守備隊が待ち伏せする曲輪(土塁などで囲って造られた平らな土地)が次々に現れます。

 最初に出会うのが、尾根をひな壇状に造成した金子曲輪です。不用意に登っていくと、すぐさまここで鉄砲や弓矢で撃たれてしまいそうです。

たった1日で攻め落とされた

 さらに山道を登った先には、両側に小宮曲輪と松木曲輪が待ち受けています。ここでも敵は頭上から襲いかかってきます。この両曲輪は各方面からの尾根が集まる地形を利用して造られていて、城を守る側は互いに移動しやすい利点があります。

 現代の私たちは、この松木曲輪で休憩するのがいいでしょう。尾根線にあるだけに都心方面の展望が開けています。

本丸近くの松木曲輪。2020年9月撮影(画像:内田宗治)

 そのすぐ上が本丸のあった頂上です。狭い平地なので、天守閣などはなかったと考えられています。

 こうして鉄壁の備えを誇った八王子城ですが、たった1日で攻め落とされてしまいました。

 1590(天正18)年7月24日、前述の秀吉配下の攻城軍は1万5000人の大軍で押し寄せたと言われます。城下の町に火をかけ本丸へと攻め登ります。この時城主の北条氏照は不在。城内の兵士はわずかでした。多勢に無勢で1日も持ちこたえられなかったのです。

なぜ不在だったのか

 なぜこの時、城主や兵士が不在だったのでしょうか。

狭い平地となっている城山山頂の本丸跡。2020年9月撮影(画像:内田宗治)



 その3か月ほど前、秀吉が本隊15万人の大勢力で小田原城へと侵攻します。それを察して、八王子城の氏照は、軍団を引き連れて小田原城に入ります。本家の一大事にあたり、氏照は北条氏の本拠小田原城を守る側に回ったのです。

 いわば、手塩にかけて造営した八王子城を見捨てた形です。これが最善の策だったかどうかは疑問です。名将の誉れが高かった氏照が八王子城へ敵が迫る知らせを聞いても戻らなかったのは謎とされており、小田原城で病気になったなどの説も語られています。

 小田原北条氏の勢力は3万4000ほどしかなく圧倒的に不利のため、籠城作戦をとりますが、3か月耐えた後、降伏を決断。7月5日にほとんど無血開城、5代100年にわたる北条氏の関東支配は終焉(しゅうえん)となりました。氏照は切腹となります。

発掘調査でわかった氏照の人物像

 八王子城に話を戻すと、本丸が攻められた時、山麓にあった御主殿も焼かれてしまいます。1992(平成4)~1993年に行われた御主殿の発掘調査では、氏照が政務を行っていた主殿と客人をもてなす会所と考えられる遺構が姿を現しました。

 中国製の磁器や、ヨーロッパ王侯貴族に好まれていたベネチア(現イタリア)製のレースガラス器も出土しています。武人としてだけでなく、さまざまな遊芸を楽しんでいた氏照の姿が浮かび上がります。

 御主殿跡は整備され見学(無料)することができます。近くに国史跡八王子城ガイダンス施設(無料)があり、八王子城についてわかりやすく解説されています。

国史跡八王子城ガイダンス施設。写真奥の山の頂上に本丸があった。2020年9月撮影(画像:内田宗治)

 本丸跡への登山は難儀と思う人も多いでしょう。麓の御主殿跡付近を訪ねるだけで、都内で戦国時代に思いをはせられます。そうした貴重なスポットへのお出掛けをおすすめします。

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