ビーチリゾートから東京へ 「角松敏生」の歌詞世界から見る大都市の行方

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ビーチリゾートから東京へ 「角松敏生」の歌詞世界から見る大都市の行方

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増淵敏之

法政大学大学院政策創造研究科教授

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40年間にわたって日本のミュージックシーンをけん引してきた角松敏生。還暦を迎える2020年8月を記念して、角松が曲中に描いてきた「東京」の変遷について、法政大学大学院教授の増淵敏之さんが解説します。

角松敏生と「シティ・ポップ」

 音楽プロデューサー/シンガー・ソングライターの角松敏生のこれまでの音源をまとめた作品集「角松敏生ワークス -GOOD DIGGER-」(ソニー・ミュージックダイレクト)と「角松敏生ワークス -GOAL DIGGER-」(キングレコード)が2020年7月22日(水)、発売されました。

 収録曲は杏里や中森明菜など、角松がこれまでのキャリアで手掛けてきたさまざまなアーティストの名曲から選ばれています。ちなみに後者は、タワーレコード限定のリリースです。

1985年発表の5thアルバム「GOLD DIGGER~with true love~」(画像:ソニー・ミュージックエンタテインメント)



 角松敏生は現在、「シティ・ポップ」を代表するアーティストとして、日本はもとより世界中の音楽好きの若者から注目されています。プロデビューは1981(昭和56)年、若干20歳のときですから、これまで約40年間にわたって日本の音楽シーンで活躍していることになります。

 シティ・ポップとは、1970年代後半から1980年代にかけて日本の音楽シーンを彩った音楽ジャンルです。現代用語事典「知恵蔵mini」(朝日新聞出版)によると、

「都会的で洋楽志向の強いメロディーや歌詞を特徴とする日本のポピュラー音楽」

と定義され、代表的なアーティストは大滝詠一や山下達郎、大貫妙子、松任谷由実、竹内まりやなどが挙げられています。特に、竹内まりやの「Plastic Love」は現在までにYouTube再生回数が約3579万回と、驚異的な数字を記録しています(2020年8月1日時点)。

「リゾート指向」から、舞台は東京へ

 そんなシティ・ポップで、角松は経済成長の真っただ中だった日本、そしてその象徴である「東京」をきらびやかに描きました。

 デビュー当初は夏と海などを歌詞世界にちりばめた、「リゾート指向」の強いシティ・ポップというイメージが強かった角松ですが、やがて作品の舞台が東京へ移行していきます。

 ちょうど1985(昭和60)年にリリースされた「Tokyo Tower」がもっとも象徴的な作品です。この作品は同年リリースされた、5枚目のアルバム「GOLD DIGGER~with true love~」にも収録されています。

1983年発表、まだリゾート指向が色濃い「ON THE CITY SHORE」(画像:ソニー・ミュージックエンタテインメント)

 このような大きな方向転換は、前年である1984年にリリースされた4枚目のアルバム「AFTER 5 CLASH」からでしょう。同作品ではそれまで舞台だった「夏と海」が、「都会と夜」に変わります。

バブル前夜、1984年の日本

 アルバム「AFTER 5 CLASH」は、角松にとって「郊外のリゾートからの脱却」であり、また、都市と向き合い、独自の世界を展開していく最初のアルバムとなりました。

 1曲目の「IF YOU…」はイントロのカッティングギターが印象的な、疾走感あふれるファンクナンバーです。

1984年発表の4thアルバム「AFTER 5 CLASH」(画像:ソニー・ミュージックエンタテインメント)



 アルバムと同名の7曲目「AFTER 5 CLASH」は、都会の夜の恋人たちにまつわる物語です。歌詞に東京は明記されてはいませんが、当時の状況を考えれば、そのように解釈しても問題はないでしょう。

 アルバムがリリースされた1984年の日本は、バブル前夜でした。

 東京では、六本木プリンスホテル(2006年営業終了)に代表されるホテルが次々に完成。

 また六本木や西麻布には「カフェバー」という名の、カフェとバーが融合したリゾート感漂うおしゃれな飲食店が増えていきました。ビリヤードを楽しめる「プールバー」が出てきたのも同じ頃です。

「アーバンリゾート」の登場

 そしてさらに、東京は狂乱と喧騒(けんそう)の時代を迎えます。

 1989(平成元)年は芝浦に「GOLD」、1991年は「ジュリアナ東京」と大型ディスコがオープンし、多くの若者でにぎわいを見せました。

週末でにぎわう大型ディスコ「ジュリアナ東京」(画像:時事)

 六本木にはタクシー待ちの行列ができ、1メーターでは乗車拒否される始末。あのような時代は、もう二度と訪れることはないでしょう。

 このような現象からわかるのは、海に代表されるリゾートが、東京に「アーバンリゾート」として登場したということです。

 アーバンリゾートとは大都市圏内やその周辺にありながらも、都会とは一線を画すような「疑似リゾート空間」を指します。

 大規模なところではコンベンション施設やスパなどを併設し、水や緑の木々を空間演出に使っていた場所もありました。

 前述のカフェバーやプールバーもその一端を担っていました。言い換えれば、移動を伴わずに楽しめる「都会のくつろぎ空間」とも表せるかもしれません。

 角松本人が東京生まれ、東京育ちのため、「AFTER 5 CLASH」で本格的に原点回帰を行ったとも言えます。

 東京には若者を引き付けるアーバンリゾートが乱立し、あえて夏や海にこだわる必要もなくなり、東京や都会での夜の物語へと移行したのでしょう。

ニューヨーク長期滞在で変わった価値観

 前述のように、角松の作風は1984年の「AFTER 5 CLASH」以降、次第にダンスミュージックやファンク色が強くなっていきます。

 1985年の「GOLD DIGGER~with true love~」前後には、彼はニューヨークに長期滞在し、海外の都市とも向き合うようになります。その要因はダンスミュージックや最先端のファンクミュージックに引かれてのことだったようです。

 その後、フュージョンに関心を寄せ、1990(平成2)年にはロサンゼルスに居を構え、ラリー・カールトンやジョー・サンプルなどといった大物ミュージシャンとのレコーディングを実施。

 角松は滞在中に海外の都市が持つ音楽文化を深く理解し、そしてそれらを自らの音楽に取り込んでいきます。

 またその頃には、他のミュージシャンとの交流、他のアーティストへのプロデュースや楽曲提供、インストゥルメンタルアルバムの制作と意欲的に活動の幅を広げていきます。

 そして1993(平成5)年の日本武道館でのコンサートでの「凍結宣言」による活動停止を経て、1995年には覆面バンド「AGHARTA(アガルタ)」で長万部太郎の名前で復活。のちに人気グループ「V6」がカバーすることになる「WAになっておどろう」(1997年)を発表しました。

1997年発表の「ILE AIYE~WAになっておどろう」(画像:カッティング・エッジ)



 角松は現在もオリジナルアルバムや企画アルバムを定期的に発表し、ライブも行っています。

 この8月12日(水)で角松は還暦(60歳)を迎えます。デビュー当時から知る筆者(増淵敏之。法政大学大学院政策創造研究科教授)にとって少々驚きですが、これからも彼なりの視点で、東京を描き続けてもらいたいと思っています。

「まばゆい」から「暮らしやすい」都市へ

 角松は長いキャリアのなかで、アーティストして幾多の紆余(うよ)曲折を経てきました。

 しかし、彼の楽曲のなかに浮かび上がる東京という都会も同じように変遷してきました。

 1980年代後半のバブル期の、まばゆい光を放つ夜の東京はすでに過去のものになりましましたが、それでも東京は都会としての魅力を失わず、新たな魅力がいくつも生まれています。

角松敏生の近影(画像:ソニー・ミュージックダイレクト)



 これからも続くであろうコロナ禍のなか、求められる東京の姿はかつてのまばゆさよりも、「住みやすさ」「暮らしやすさ」なのかもしれません。

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