荒川が流れてないのになぜか「荒川区」――東京「名実不一致」問題にズバッと切り込む【連載】東京うしろ髪ひかれ地帯(8)

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荒川が流れてないのになぜか「荒川区」――東京「名実不一致」問題にズバッと切り込む【連載】東京うしろ髪ひかれ地帯(8)

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業平橋渉

都内探検家

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港区にある「品川駅」、品川区にある「目黒駅」。東京には“名実不一致”なスポットがさまざまあります。中でも、荒川区に荒川が流れていない理由は、長い歴史の末の結果なのだとか。都内探検家の業平橋渉さんが解説します。が解説します。

江戸時代から続く長き水害との闘い

 東京のあちこちにある、「○○(地名)なのに、○○にない問題」。東京ディズニーランドは千葉県。品川駅は港区。目黒駅は品川区など……。

 いくつも思いついてしまう地名と、実際の所在地がズレている問題。とりわけマンションや商業施設になると、イメージのよい地名を使ったり名の通った駅名を掲げたりしているので「ここが○○(地名)だって?」と首をかしげてしまうことも。

 そんな東京の所在地で、ぜひ知っておいてほしいことがあります。それは、「荒川区に荒川が流れていない」問題です。

荒川は荒川区を流れていない。なぜなのか?(画像:写真AC)



 この問題、ちょっと東京に詳しい人なら知っているかもしれません。

 そう、「荒川が隅田川になったんだよね」。

……でも、そこに至る「水との闘い」を語ることができてこそ、アーバンな東京人。今回は、その話題です。

全く異なる流れだった江戸期の荒川

 徳川家康が江戸に入る以前、荒川の流れは今とはまったく異なるものでした。

 埼玉県・山梨県・長野県の3県が接する甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)を源流に流れる荒川は、現在の埼玉県越谷市・吉川市付近で利根川に合流し、東京湾(当時は江戸湾)へと注いでいました。

利根川を東へ、荒川を西への大工事

 江戸に入った家康は、この利根川の河川改修工事を始めます。改修とはいいますが、東京湾に注いでいる利根川の流れを、銚子(ちょうし)方面から太平洋へ注ぐように付け替える大工事です。

 この工事の目的はいくつもありました。まずは江戸の町を水害から守ることです。同時に、河川を整理することで水運を利用した交易路を確保することもありました。

 さらに、新田開発や江戸城の北の防備を固める意味もあります。いずれにしても、江戸の町を安定して発展させるためには欠かせない工事だったのです。

 この工事を命じられたのが関東郡代(ぐんだい)の伊奈忠次(いな ただつぐ)でした。以降、忠治、忠克と、伊奈氏は3代にわたって利根川の流れを変えるための工事を続けます。

 一方では川を締め切り、他方では河道を開削して水を流す大工事です。「利根川東遷事業」は1655年(明暦元、承応4)にいったんは完成し、利根川は東京湾から離れました。

 この工事によって、荒川は熊谷付近から南へ向かい途中で和田吉野川・入間川と合流して現在の隅田川のルートで東京湾に注ぐようになります。

徳川家康の命により、荒川と利根川の流路が変更された(画像:国土交通省 関東地方整備局 荒川上流河川事務所)



 ここでまた、ややこしいことがあります。

 このルートはもともとは入間川が東京湾に注ぐ河道だったのです。それが、入間川が荒川に合流するように変更されたわけです。これによって当時の荒川 = 墨田川となったわけですが、ここにもちょっと複雑な話があるのです。

荒川、墨田川、大川……数々の通称

 隅田川は平安時代から「住田河」と呼ばれていたようです。教科書にも使われる平安時代の古典『伊勢物語』の「東下り」の段にも「すみだ河」の名前は登場します。

 隅田川にかかる業平橋(なりひらばし)は『伊勢物語』の主人公とされる在原業平に由来するもの。なので、在原業平はここで川を渡ったのだろう……と思いがちですが、これも全く違います。

 橋の名前の由来は、江戸初期に在原業平が亡くなったと伝わる場所にあった業平天神社なのです。ですので、元の入間川つまり江戸時代の荒川が『伊勢物語』のすみだ河であるという確証も、いまいちありません。

 江戸時代を通じて、この荒川の下流域は、隅田川・大川・浅草川……などさまざまな通称で呼ばれています。

 1817(文化14)年に書かれた『新編武蔵国風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』では、千住大橋より上流を荒川、下流を隅田川、大川と呼ぶとあるので、江戸時代の後期にはなんとなく隅田川か大川の名前で定着していたようです。

 この川は水運には極めて重要なものでしたが、川の流れが遅く大雨で水量が増えると洪水を起こす、問題のある川でした。

「明治43年の大洪水」の被害の様子を伝える当時の資料(画像:国土交通省 関東地方整備局 荒川上流河川事務所)



 明治時代になっても洪水は耐えず、この問題を解決するために新たな放水路を建設する計画が立てられます。

 工事が始まったのは1913(大正2)年。現在の北区にある岩淵水門から、幅500m、約22kmの河道を開削する大工事です。

 工事は、途中でも台風や地震の被害を受ける難工事となりました。1924(大正13)年に岩淵水門が完成し、放水路への分流が始まりましたが、関連工事が終わったのは1930(昭和5)年のことでした。

法改正に伴って荒川の名前が変更に

 その流域の北豊島郡では、1932(同7)年に東京市域の拡張により南千住町・三河島町・尾久町・日暮里町が東京市に編入されます。合併し東京市20区のひとつとなることになった四つの町は、区の名前を決めることになります。

 このとき、地域を流れている川の名前をとって、荒川区が誕生します。

 ところが1965(同40)年に河川法の改正が行われると、人工河川だった放水路が「荒川」とされ、岩淵水門から下流にある本来の荒川の正式名称は「隅田川」とされます。

現在の地図。西に墨田川、その東に荒川、さらに東には江戸川が流れる(画像:(C)Google)



 元の荒川が隅田川にされた理由は不明ですが、1998(平成10)年9月8日付の産経新聞は、建設省(当時)関東地方建設局荒川下流工事事務所に取材し、

「詳しい資料は残っていないが、現在の隅田川の呼び名が、場所によってめちゃめちゃだったので、統一したためではないか」

という証言を得ています。

 確かに河川を管理する上では、荒川が本来の流れと放水路とふたつあり、片方は通称の隅田川の方が知られているでは不便だったのではないでしょうか。

 ちなみに、区の由来が消滅してしまうことになった荒川区では、特に反対の声はなかったそうです。

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