【子持ち主婦が考えるSNS論】ツイッターの「終わりなき議論」を終わらせる、インドに伝わる教えとは

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【子持ち主婦が考えるSNS論】ツイッターの「終わりなき議論」を終わらせる、インドに伝わる教えとは

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宮野茉莉子

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反論が反論を呼び、収拾がつかなくなることもしばしばあるツイッター上での議論。「出口なき議論」を終えるにはどうすればいいのか、ライターの宮野茉莉子さんが考察します。

論破がゴールになっていないか?

 新型コロナ禍でも数多く見られた、ツイッター上での「平行線の議論」。

 未知のウイルスを強く恐れ、「東京の繁華街でマスクをしていない人を見掛けた。常識のない人だ」と批判する人がいれば、「(マスクをしていない人をわざわざ注意して回る)『マスク警察』はやり過ぎ、もはやコロナ脳(コロナウイルスを恐れる人を指す蔑称)だ」などと揶揄(やゆ)する人もいて、決して交わることのない平行線の議論を可視化させました。

 匿名SNSにおける意見対立の特徴は、議論による和解や歩み寄り、相手に対する想像力の保持、さらには科学的根拠による事実の検証といったこと以上に、対立相手を「論破」することがゴールになりがちであるという点です。

 特にツイッターの場合、たった140文字という制約の中で慎重かつ丁寧に議論するのはそう簡単なことではないでしょう。

 2013年に出版されベストセラーとなった『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)には、「人は、対人関係のなかで『わたしは正しいのだ』と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです」というアドラー心理学による言及があります。

 権力争いが始まると、主張の正しさよりも勝ち負けに意識がいってしまうという指摘です。

延々と平行線をたどるツイッターでの議論。どうすれば終わらせることができるのか(画像:写真AC)



 匿名SNSでも同じように「どちらが上で、どちらが正しいか」の戦いになってしまう場面がしばしば見受けられます。

 それならば「いっそSNSをやめればいいじゃないか」という声が上がるのも、仕方のないことかもしれません。

多様な意見を発信していく意義

 著名人・有名人に対する誹謗(ひぼう)中傷が社会問題として注目を集めた際、「嫌な書き込みをするアカウントは早めにブロックするのが自衛策」という意見もありました。現状ではそれが最善の対策というのも、残念ながらうなずけます。

 しかし、それではやはり少し寂しいというのが筆者の本音です。なぜなら自分と異なる意見に出合うことは、本来、自分の考えを深化させてくれる体験であり、SNSはそれをかなえる絶好のツールとなるはずだからです。

 リアルの世界なら議論の俎上(そじょう)にさえ上がらないこと、あるいは表面だけをなぞり深く議論することもなかった話題について、さまざまな議論がなされ、多様な意見が出てくることは、匿名SNSの強みでもあります。

イエスか、ノーか? 単純な二項対立を超えるためには(画像:写真AC)



 そもそも人が抱く考えは、当然ながら0か100かだけではありません。1から99それぞれの考えを持つ人がいて、例えば56.3のようなあいまいさも、存在することを許容されるのが本来の姿です。

 あくまでひとつの私案ですが、もしツイッターで白熱する議論――0か100かを争う議論を目にしたとき、そしてその問題に対する自分自身の考えが56.3のようなどちらとも言い切れない、けれどひとつの大事な意見だと感じるときには、思い切って56.3である自分の意見を発信してみるのはいかがでしょうか。

 同じように47.2の人や81.9の人たちも声を上げてくれれば、議論はより多面的なものになり、良い意味で「正解」を「相対化」させてくれるはずです。

ツイッターに助けられた経験

 実際のところ、これが正解と言い切れる問いは少なく、どんな「正解」であれそれぞれ個々人の価値観によるものが大きいでしょう。

 さまざまな意見が出ることで自身の考えを深化させ、またそれぞれの価値観を認め合う風潮が当たり前になれば、匿名SNSがよりプラスのものとして人々に働くようになるのではないでしょうか。

 ツイッターの投稿の中には、時にハッとさせられたり、感動したりするものも多いということを、ツイッターユーザーの皆さんならご存じのはずです。

 自分ひとりで考えることや、同僚や家族など身近な人との話で出てくるアイデア以上のものが、SNSにはしばしば見つかります。

 筆者がハッとさせられたのは、

「日本の親は、『人に迷惑かけちゃダメですよ」と教えるが、インドでは、『お前は人に迷惑かけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教える」

というツイートでした。

SNSを通して知らない考え方に出合った経験。筆者の場合は子育てに関してだった(画像:写真AC)



 独身時代、東京での自立した生活を全うしていた頃は、何でも自分でやるのが当たり前だし、できるものだと思っていました。

 しかし育児を経験し、ひとりでできることの限界を知り、また多くの人と関わり合うことが親子ともにプラスに働くことも実感しました。

SNSをもっと活用していくために

 親は子どもを「しつけられる」ものと思っていましたが、それには想像以上の時間がかかること、そもそも第1次反抗期という通るべき成長過程があること、また子どもが物事を本当の意味で理解するには脳や心身の発達、数々の失敗や経験を重ねることが必要なのだということを、自分自身の体験だけでなく友人からの指摘、そして顔も名前も知らない誰かの投稿を通して知りました。

「他人に迷惑をかけてはいけない」と思い過ぎることにより、失うものの多さや閉塞(へいそく)感を知り、またそう妄信することで他者に対する許容範囲が狭まることも知りました。

 子どもには、故意に迷惑をかけないことのラインを教えるのと同時に、人は生きていれば迷惑をかけることもあるのだということ、だからこそ他者に対しても許す心を持とうということを教えたいと考えが変わり、自分自身の失敗や迷惑に対する許容範囲も広がりました。

子育てをしながら見つけたツイッターのつぶやきで、失敗や迷惑を許すことを知った(画像:写真AC)



 知らない情報を得たり、気付きを与えたりしてくれるというSNSのメリットは、現状でも十分に果たしているはずです。見聞を広め、議論を深化させるには、SNSをあしきツールと認定してしまうのはあまりにもったいないことのように思えます。

 このツールをいかに役立てていくかは、私たち自身の使い方にかかっています。0か100かではなく、数多くの1から99の議論がされ、また違った意見も受け入れていく空気が広がるよう活用していきたいものです。

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