150年前の東京とは
2020年6月6日(土)、東京メトロ日比谷線に新駅となる虎ノ門ヒルズ駅が新たに誕生しました。
虎ノ門ヒルズ駅はその名称の通り、虎ノ門ヒルズ(港区虎ノ門)の最寄り駅です。虎ノ門ヒルズ一帯は、都市開発事業者の森ビル(港区六本木)、そして東京都が総力を結集して開発を進めているエリアです。それだけに、今後の東京をけん引する目玉の開発案件でもあります。
日本の政治・経済の中心地でもある東京は、アメリカのニューヨーク、イギリスのロンドンなどと並び国際都市として発展を続けています。
いまや世界に名だたる大都市と肩を並べる東京ですが、150年前は違いました。明治維新によって江戸幕府から政治体制が転換したばかりの東京は、江戸時代の面影を強く残した街であり、とても諸外国から認められるような大都市ではありませんでした。
明治政府が建築物の西洋化に取り組んだワケ
当時は鎖国が解かれた直後です。諸外国との交流が始まり、ようやく海外の文化・製品などが日本にも入ってくるようになりました。
海外から輸入される舶来品は品質が高く、ゆえに日本で生産される工業製品・農産品などは太刀打ちできない状況でした。
そうした現状を変えるべく、明治新政府は殖産興業を推進。西洋から技術を導入して、生産力の向上、品質改善に努めました。
西洋列強に「追いつき追い越せ」をスローガンにしていた明治新政府は建築物を西洋化する政策、いわゆる欧化政策にも力を入れました。
明治新政府の首脳たちが建築物に着目した理由はいくつかあります。
そのなかでも、特に大きな理由が、建築物は人目につきやすいという理由がありました。西洋の建築物が街の中心部にできれば、かなり目立ちます。それらは、日本が文明国になったことをアピールできるシンボルにもなるのです。
そうした訴求力を期待し、明治新政府は建築物の西洋化に取り組んだのです。
焼き尽くされた銀座
政府内で、特に建築物の西洋化を推進したのが井上馨と三島通庸(みちつね)です。
1872(明治5)年、大火によって銀座の街は焼き尽くされました。銀座の再興にあたり、井上は銀座の店という店を煉瓦(れんが)造りで再建させることを指示します。これが銀座煉瓦街を形成することにつながっていくわけですが、銀座煉瓦街の建設には防火と西洋化というふたつの目的が含まれていました。
銀座煉瓦街の建設を構想・指示したのは井上で、現場で指揮したのが三島です。三島は銀座煉瓦街の建設で西洋建築の持つ威力を悟りました。
銀座煉瓦街プロジェクトを終えた1874年、三島は酒田県令として赴任。1876年には山形県令として山形市へ転任しますが、その間に三島は西洋建築を建てまくったのです。
当初ちんぷんかんぷんだった作業現場
当時、外観こそ見よう見まねで西洋建築をつくることはできましたが、人々の生活スタイルをすぐに変えることはできません。
西洋建築で建てられた家屋なのに和式を前提とした家具が配置されていたり、畳敷きの居間にロッキングチェアが置かれていたりといった、どこかしら西洋になり切れていない建築物もたくさんつくられました。
また、設計担当の技術者が西洋建築に関する知識を有していても、現場の大工たちは西洋建築といってもちんぷんかんぷんです。
そのため、西洋と和風が混ざったちぐはぐな西洋建築も多く、明治半ばまでは西洋建築っぽい和風建築もたくさん誕生しています。こうした建築物は、擬洋風建築と呼ばれて区別されることもあります。
三島が山形県でつくった西洋建築も擬洋風に分類されます。いずれにしても開国して間もない時期に、異国のような建物が山形という地方都市で次々と姿を現しました。目にしたこともない建物を見て、山形の人々が驚いたことは言うまでもありません。
三島が建設を命じた擬洋風建築は時代を先取りしていたこともあり、のちに山形県民の誇りにもなります。特に、霞城公園内(山形県山形市)に移築・保存されている旧・済生館本館は擬洋風建築の最高傑作と評価されるほどです。
イギリスからやってきた建築家
建築物の西洋化に取り組んでいた明治新政府の首脳たちは、その知識や技術を日本人建築家に習得させるべく海外から建築家を招きます。
1877(明治10)年にイギリスから来日したジョサイア・コンドルも明治新政府が招待した外国人技術者のひとりです。
24歳という若輩ながら、明治新政府の大きな期待を背負って日本へと来たコンドルは工部大学校(現・東京大学工学部)の教授に就任。ここで、日本人建築家の育成に努めました。
工部大学校の一期生からは、東京駅や日本銀行本店を設計した辰野金吾、慶応義塾大学図書館などを設計した曽禰達蔵(そね たつぞう)、東宮御所(現・迎賓館赤坂離宮)を設計した片山東熊(とうくま)など、日本建築界の次代を担う技術者を輩出。
以降も、2期生からは学習院校舎などを設計した渡辺譲(ゆずる)、6期生からは旧醸造試験所第一工場などを設計した妻木頼黄(よりなか)といった歴史に名を残す優秀な建築家を輩出しています。
総理大臣よりも高給だったコンドル
西洋建築の技術者を育成するために来日したコンドルですが、教育者としての勤務期間は決して長くありません。工部大学校の一期生が優秀な人材の宝庫だったことから、明治新政府は卒業生の日本人建築家に後進の育成を委ねることにしたのです。
そうした事情から、1884(明治17)年にコンドルは退官。その後も引き続き講師として指導にあたりましたが、1888年には講師も辞任しています。
明治新政府が短期間でコンドルとの契約を解消した理由は、日本に貢献する人材は日本人がふさわしいというナショナリズム的な理由もありましたが、それ以上に大きな理由は海外から招待するお雇い外国人の給料にありました。
お雇い外国人の給料は日本人とは比べ物にならないほどの高給で、コンドルの給料は当時の総理大臣よりも高給だったといわれています。
任を解かれたコンドルは母国のイギリスへ帰国せず、そのまま日本に残りました。
民間でも活躍したコンドル
コンドルの才能はズバ抜けていたこともあり、民間に転じた後も設計の依頼が相次ぎます。中でも三菱財閥および創業者一族の岩崎家は特にコンドルを厚遇しました。
コンドルは個人住宅・企業のオフィスを問わず、幅広く手がけていますが、三菱・岩崎におけるコンドル建築もオフィス・個人住宅問わず多くを手がけています。
都内に現存する代表的なコンドル建築には、旧岩崎邸庭園(台東区池之端)と岩崎弥之助高輪邸があります。旧岩崎邸庭園は一般公開もされていて、誰もが気軽にコンドルの設計思想に触れることができます。
一般公開はされていない岩崎弥之助高輪邸は、開東閣(港区高輪)という名称で三菱グループの親睦施設として活用されています。
帝都・東京のデザインを任されたコンドルは、退官後も東京を中心に活躍し、日本で生涯を閉じました。
都内に残る「和洋融合」の記憶
西洋建築を教えるために来日したコンドルですが、来日後は日本の文化に魅了されています。
仕事の合間に日本画の手ほどきを受け、日本の園芸も学んでいたのです。コンドルは吸収した日本文化を西洋建築と融合させることで新しい建築を模索しました。
古河財閥総帥だった古河虎之助の邸宅は、コンドル晩年の作品です。
その一部は国に移管され、東京都が管理する形で現在は旧古河庭園(北区西ケ原)として一般公開されています。洋館とバラ園が美しい旧古河庭園には和風の庭園も整備され、来園者を楽しませます。
旧古河庭園の日本庭園はコンドルの設計によるものではなく、作庭家(さくていか)として名高い7代目・小川治兵衛の手によるものです。それでも、長らくコンドルが模索していた洋風と和風の融合が旧古河庭園で結実したといえます。
6月21日には、ジョサイア・コンドルの没後100年を迎えました。コンドルがもたらした西洋建築のDNAは脈々と東京の街に受け継がれています。