麻布・広尾・目黒に「高級住宅街」「下町」の真逆イメージが両方根付いた歴史的経緯(前編)
麻布・広尾・目黒という土地のイメージと歴史について考える、ジェイ・エム・アール生活総合研究所社長の松田久一さんの連載(全3回)。1回目のテーマは、地形的な特徴について。武蔵野台地という地形的特性 麻布、広尾、目黒という主に日比谷線沿線の地名を聞くと、芸能人や著名人が多く住み、住みたいが手の届かない「山の手」の「お屋敷町」、「高級住宅街」というイメージがあります。実際、沿線別の路線地価は極めて高くなっています。 他方で、地元民や年配者などは全く対極のイメージも持っています。意外ですが、「原っぱ」、「庶民層」、「ブルーワーカー」などの印象です。この地域の1960年代は、映画『ALWAYS三丁目の夕日』の舞台に近いかもしれません。 この二重性をひも解いてみようとするのが本稿の狙いです。3回続きの第1回は、地形的特徴という側面から。 ※ ※ ※ この地域をひとつとして捉えるのは、麻布、広尾、目黒などが共通性を持っているからです。 日本有数の高級住宅街のひとつ、麻布の歴史とは?(画像:写真AC) ひとつは、これらの地域は、地形的には武蔵野台、つまり、平地ではなく台地にあるということです。地形的な意味で台地側、つまり「山の手」が共通点です。山の手という言葉は、高級住宅地と結びついていますが、ここでは単に武蔵野台地の上にあるということです。 タクシーの運転手さんは、山の手を「坂」で覚え、下町は「橋」で覚えると言われます。港区麻布周辺だけでも100の坂があります。 この地域に坂が多い理由この地域に坂が多い理由 東京の自然地形は、湾、大きな河川、平地、台地で構成されています。 室町時代の武将・太田道灌(おおた どうかん)が武蔵野台地の東端に江戸城を築き、利根川の氾濫を防いだことで利用できる平地が増え、徳川家康が居城を引き継ぎ、台地・平地を利用し、河川をさらに改修することによって利用できる土地を拡大し、埋め立てで土地を拡大。 河川の氾濫が多く、土地は肥沃(ひよく)でもなく、人口が少ない地域を世界最大の都市へと発展させました。 麻布・広尾・目黒は、少し離れていますが、江戸城と同じ武蔵野台地にあります。江戸は四谷大門、青山1丁目、一ノ橋、赤羽橋ぐらいまでの、現在の外苑西通りぐらいまででしょうから、広尾や目黒は武蔵野の野原といったところです。 この地域に坂が多いということは、台地、つまり人の目線では山だということです。江戸は自然地形をうまく使って、人が利用しやすいものに変えていきます。 台地の山の尾根をつなぎ道路をつくります。青山通り(国道246号線)、六本木通り、新宿通りのような郊外へ延びる道路になります。江戸城を守っていた掘をつないで、内堀、外堀通りなどの環状線にします。 東京の道は、江戸城を中心にして、内堀通り、外堀通りのようにいくつかの環状道路があり、半蔵門から新宿、そして、江戸五街道のひとつである甲州街道や青梅街道につながり、郊外へと向かう新宿通りのように、円の中心から外に向かう道路で覚えると言われます。 江戸城から南西という位置江戸城から南西という位置 大枠では、現在の東京の環状道路は、江戸の周りの掘りをつなぎ、新宿通りなどは、台地の尾根をつないでできたようです。 日本の道路の基点である日本橋から「江戸五街道」と呼ばれる街道が出ています。 江戸・日本橋を起点とする幕府直轄の主要な五つの陸上交通路「江戸五街道」(画像:国土交通省) 栃木・宇都宮を経て、家康の日光東照宮へと向かうのが日光街道です。千住(足立区・荒川区)を経て東北へと向かう奥州街道。そして、日本橋から板橋、板橋から高崎(群馬)、木曽(長野)を経て、京都へ向かうのが中山道。 最も有名なのが東海道で、品川から京都の三条大橋・京都へ五十三の宿場駅を経て向かう街道です。現在は、東海道新幹線、東海道本線、国道1号線が通っています。歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」や十返舎一九作「東海道中膝栗毛」で知られています。 麻布、広尾、目黒の共通点は、江戸城から少し離れた大きな武蔵野台地にあり、坂の多い、「山の手」(坂や山を上がるところ)であるということです。 もうひとつは、江戸城から見て方角が南西にあるということです。江戸城から見て、南西に当たるということは、安倍晴明のような陰陽師が占う風水的には「裏鬼門」になります。 「裏鬼門」が意味するもの「裏鬼門」が意味するもの 江戸の正統学問であった朱子学とは異なり、中国の土俗宗教であり、現代までも継承される道教に近いもの。全ての事象を「気」を中心に説明しようとするものです。 鬼、つまり悪気が巡る場所となります。鬼門(表)は北東になり、上野がその方角になります。江戸建設は、寛永寺(台東区上野桜木)の初代住職、天海の影響が大きかったといわれています。 都市伝説に近いものですが、ふたつの説があります。 ひとつは、「四神相応」説です。 四つの方角から神獣に守られた都市ということです。北は玄武(山)、東は青龍(せいりゅう)が宿る川(大川、隅田川)、南は朱雀(すざく)が宿る平野と海(江戸湊)、西は白虎(びゃっこ)と増上寺(港区芝公園)です。 この四神が、京都のように守りを固め、鬼門の上野には寛永寺を置き、裏鬼門の芝には増上寺を置いたというものです。ただ、裏づける証拠は何も見つかっていません。 もうひとつは、「江戸五色不動」説です。 古代中国思想の五行思想にもとづいて、悪鬼を封じ込めるために、五つの不動尊を置いたとするものです。 五行とは、万物は、水・木・金・火・土によって構成されているという世界観です。不動尊は、最も古い仏教の密教を中心に信仰される、怒りの形相の守りの守護者。 その目を五行思想で色づけしたものが、目黒(水)不動、目青(木)不動といわれる世田谷区教学院(世田谷区太子堂)、真言宗金乗院の目白(金)不動、文京区南谷寺の目赤(火)不動、台東区永久寺の目黄(土)不動といわれる永久寺です。 寺町として栄えていた目黒寺町として栄えていた目黒 しかし、五色不動の江戸城から見た方角は、ほとんど一致しません。また、不動尊のある寺は密教系寺院ですが、空海の真言宗や最澄の天台宗などで一貫性がありません。 さらに、風水は中国の土俗宗教、五色は陰陽五行思想、そして、不動尊は密教系仏教と多様な宇宙観が混交しています。 従って、五色不動説もさまざまな人々がつくりあげた都市伝説のひとつのようです。 そのなかで明確なことは、五色不動尊の中心は、江戸時代に行楽地であり、寺町として栄えていた目黒の天台宗龍泉寺のようだということです。
- 未分類