1990年代から生まれた「自撮り文化」
近年話題となっている動画投稿アプリ「TikTok(ティックトック)」。15秒程度の動画を使ったこのSNSは、2018年頃から10代の若者を中心に人気が急上昇し、今では幅広い世代に楽しまれています。
そんなTikTokブームですが、突然生まれたものではありません。その背景には1990年代に生まれた「自撮り文化」があり、それがスマートフォンを通して進化したと考えられます。
TikTokのみならず「Instagram」や「Twitter」などを使った自撮りは、オシャレなカフェや珍スポットで自分を入れ込んで写真を撮影しシェアするというもの。
今回歴史を振り返るのは、その原点といえるプリントシール機「プリクラ」です。
誕生は25年前
正式名称を「プリント倶楽部」というプリクラが、ゲームセンターなどのアミューズメント施設に登場したのは1995(平成7)年7月のこと。その場で撮影すると、約60秒で1シート・16枚の写真シールがプリントアウトされ、価格は当時300円でした。
プリクラを開発したのは、『女神転生』や『ペルソナ』シリーズなどの人気ゲームで知られるアトラス(品川区西品川)です。
当時、アミューズメント機器の開発を手がけていた同社で、プリクラのアイデアを生み出したのは、当時30歳の女性社員・佐々木美穂さんでした。
アイデアの原点は、街で見かける10代の女性たち。文房具店でキャラクターもののシールを買っていく彼女たちの姿を見て、「自分の顔が背景と合成シールにできて、ビデオプリンターみたいに出てきたらウケるだろうな」と考えたのが発端でした。
当初は見向きもされなかった
アトラスは、現在ではセガサミーグループの一角を担い、2019年にリリースしたゲーム『十三機兵防衛圏(じゅうさんきへいぼうえいけん)』が話題の大手ゲームメーカーですが、当時は創業10年足らずの若い会社でした。
その若さゆえの勢いなのか、佐々木さんの案はすぐに採用され、1年後には業界展示会に出品。ここで得た意見を踏まえ、セガ・エンタープライゼス (現セガゲームス)との共同開発で、製品が完成しました。
1台・122万5000円の構造は、三菱電機の監視用小型電荷結合素子(CCD)カメラを使用し撮影、ソニー製のビデオプリンターで印刷するというものです。リリースされた筐体(きょうたい。機器類を収める箱形の容器)は、セガの運営するゲームセンターなどに早速設置されました。
「きっと若い女性たちにウケるに違いない」と、リリース時には渋谷の商業施設「SHIBUYA109」(渋谷区道玄坂)でイベントも開催しますが、まったくといっていいほど見向きもされませんでした。
当時のゲームセンターの主力ユーザーは男性でした。当時のゲームセンターは、男性が集まって対戦格闘ゲームに夢中になったり、地域によっては不良のたまり場になったりしていた時代です。女性たちがプリクラを知ることも難しく、このまま消えていくかと思われていたのです。
ブレークは「愛ラブSMAP!」
ところがここで、一気に知名度が上がる出来事が起きます。
テレビ東京で当時放送されていた「愛ラブSMAP!」が1996年、SMAPメンバーのプリクラをプレゼントする企画を実施したのです。
その反響は絶大でした。
テレビ局にはプリクラを欲しがるファンの女性たちからハガキがどんどん届きました。そしてアトラスには、プリクラを設置したい業者や設置場所を尋ねる人などから電話が殺到しました。
シェアする文化も生まれた
こうして知名度を得たプリクラですが、開発時の工夫がさらに人気を得る理由になりました。筐体はROMを差し替えるだけで、簡単にフレームの変更ができるようになっていたのです。
この結果、1996年2月にリリースされたサンリオのキャラクター・キティちゃんのフレームが爆発的なブームを呼びました。
このフレームは都内にわずかに20台のみ設置されたレアもので、設置されたサンリオショップには行列ができました。とりわけ、当時「コギャルの聖地」として繁栄していた渋谷では、サンリオショップからモヤイ像まで長い行列ができたといいます。
ヒットは新しい文化を生みます。
それは、撮影したプリクラをシェアする文化です。当時は手帳にシェアしたり、交換したプリクラを貼ってコレクションをしたりするのがはやっていました。
一部では、本命の彼氏・彼女のプリクラは携帯電話やPHSの電池カバーの裏に貼るという「奇習」も生まれました。
プリクラを撮るため、毎日のように押し寄せる女子高生によって、それまで男子の「聖地」だったゲームセンターの雰囲気はガラリと変わりました。
コミュニケーションツールへと変化
それほどまでに女子高生たちがプリクラを撮りたがった理由は、ブームの中でプリクラがコミュニケーションツールへと変化していたからです。
友達とお互いのプリクラを交換するだけではありません。プリクラの数は、「自分の友達の数の証明」だったのです。
手帳に無数に増えていくプリクラには、一度しか会ったことのない相手どころか、会ったことのない友達の友達のものもザラにありました。しかしそれもみんな自分の友達だ、というのが当時の女子高生たちの常識だったのです。
当時の女子高生は、こんな風に語っています。
「なんかの機会に友達の友達に会った時“写真で見たよ”と言うと、すぐに仲良くなれる」(『SPA!』1996年5月15日号)
友達の友達もみんな友達――。そんな楽しげな「常識」はスマートフォンの時代になり、形を変えて継続しているというわけです。