女子高生すらトリコにする「城跡と寺」が世田谷にあった
2020年3月27日
知る!TOKYO招き猫で有名な世田谷区の豪徳寺。同寺の周辺エリアを、法政大学大学院政策創造研究科教授の増淵敏之さんが歩きました。
東京では影の薄い城跡
少し先ですが、栃木県宇都宮市で「関東武士(関東生まれの武士)」の講演会に登壇することになりました。
武士の誕生は諸説あり、その中には10~11世紀頃に関東に下野した下級貴族が荘園などの土地を守るために武装したことが起源になったという説があります。
東京は数多くの古い城跡があります。ただ江戸城跡があまりに巨大で、かつ皇居として残っているため、他の城跡はそれほど当時の面影がなく、影の薄い存在になっています。都心部から近く、当時の形が若干残っているといえば、世田谷城跡ぐらいでしょうか。
近年「日本百名城」「続日本百名城」のスタンプラリーが人気で、老若男女問わず城跡巡りを趣味にする人たちが増えているようです。
そんななか、最近、山田果苗の漫画『東京城址女子』(KADOKAWA)が静かな話題となっています。女子高生が城跡巡りをする作品で、相当マニアックな作風ですが、少し前に「歴女」がブームになったこともあり、『東京城址女子』はそういったバリエーションのひとつだと捉えられます。

さて前出の世田谷城跡は東京都指定旧跡で、その一部が世田谷城址公園(世田谷区豪徳寺)になっています。もちろん『東京城址女子』でも紹介されています。
今も残る空堀と土塁
世田谷城は、中世に活躍した武蔵吉良氏が住んでいた城です。吉良氏は戦国時代に北条氏へ付いたため、1590(天正18)年の小田原征伐で世田谷城は廃城の憂き目にあいました。

世田谷城は経堂の台地から南に延びた突端(とったん)にあり、現在も空堀や土塁が残っています。なお、麓を流れる烏山川は堀の役目を果たしていたそうです。
創建は彦根藩主・井伊直孝
また、井伊直弼の墓のある豪徳寺(同)までがその範囲でした。豪徳寺の始まりは、吉良氏が1480(文明12)年に弘徳院という庵(いおり)を結んだことと言われています。その後、江戸時代の1633(寛永10)年に彦根藩主の井伊直孝が井伊家の菩提(ぼだい)寺として伽藍(がらん。寺院の建物)を創建、整備したようです。

徳川幕府の誕生以前は、どちらかというと、さまざまな事象は京都を中心に回っていました。鎌倉幕府は存在していたものの、天皇は京都にいたため関東は辺境の地であったのかもしれません。
関東出身の足利尊氏も幕府は京都に開き、関東には鎌倉公方(鎌倉府の長官)を置きました。関東では武士たちの争乱が続いており、それが京都に広がり、応仁の乱につながったという見方もあります。世田谷城跡もその時代の名残なのでしょう。
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