東京駅の東側エリア、「八重洲」の由来って何? 歴史の背後にあったのは謎の外国人の存在だった

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東京駅の東側エリア、「八重洲」の由来って何? 歴史の背後にあったのは謎の外国人の存在だった

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下関マグロ

サンポマスター、食べ歩き評論家

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皆さんは、東京駅東側一帯を指す「八重洲」の由来をご存知でしょうか。実は外国人にそのルーツがあります。サンポマスターの下関マグロさんが解説します。

広くて散歩にピッタリな八重洲地下街

 散歩ライターをやっていると、「雨の日や暑い日などは、どんなコースを歩けばいいのか」という質問をよく受けます。そんなときにおすすめするのは、地下街散歩です。地下街は雨も降りませんし、紫外線も届きません。暑さ寒さも地上ほどではありませんから、散歩するには快適なのです。

 中でもおすすめは東京駅から直結している八重洲地下街です。広くて歩きがいがありますし、飲食店がたくさんあったり、郵便局もあったりして、なかなかおもしろい地下街です。

 ところで、八重洲という地名の由来をご存じでしょうか。その答えが地下街の中にあります。筆者がその答えを知ったとき、かなり驚きました。だって八重洲という言葉の響きはあまり日本語っぽくないですから。実際、オランダ人の名前なんです。名前はヤン・ヨーステン。

リーフデ号の船員だったオランダ人、ヤン・ヨーステンの像(画像:下関マグロ)



 話は1600(慶長5)年までさかのぼります。関ヶ原の戦いの直前、オランダ船のリーフデ号が現在の大分県で難破しました。その船に乗っていたのがヤン・ヨーステンでした。

 ヨーステンは後に徳川家康の外交顧問になり、屋敷を与えられました。屋敷があった場所は和田倉門外(現在の千代田区)の堀の岸辺で、その場所は彼の日本名にちなんで「八代洲河岸(やよすがし)」と名付けられました。そこから八重洲へと転じたのだそうです。

 なるほどそれならうなづけますね。八重洲が住居表示として登場するのは、1872(明治5)年のこと。1954(昭和29)年には東京駅の東側一帯が「中央区八重洲」となり、現在も続いています。

 八重洲地下街はそれぞれ通りに名前があり、「外堀地下1番通り」にはなんとヤン・ヨーステンの記念像があります。首から上だけの像で、最初に見たときはちょっと驚きました。目のぎょろっとした、髭をたくわえた人物だったんですね。

 この「外堀地下1番通り」にあるのは像だけではありません。ヤン・ヨーステンの人物説明はもちろんのこと、リーフデ号がどのようにして日本にたどり着いたのかを描いた世界地図や、当時の日本の様子を描いた浮世絵も紹介されているのです。さながら博物館のようですね。

丸ビルの南側にある豪華なモニュメント

 地上に上がって日本橋方向へ歩けば、日本橋三丁目交差点の道の中央分離帯にヤン・ヨーステンとリーフデ号のモニュメントがあります。

 ヤン・ヨーステンの顔は、地下街にあった物と同じです。帆船のリーフデ号もいっしょに描かれています。このモニュメントは日蘭修好380年を記念して、1989(平成元)年4月20日に中央区が設置したものです。ふたつの羅針盤にヤンヨーステンとリーフデ号がそれぞれ描かれているのです。

丸の内ビルの南側にあるリーフデ号のモニュメントは来日したオランダ王国ファン・アフト首相により寄贈された(画像:下関マグロ)



 それでは、再び八重洲地下街に降りましょう。東京駅方面へ歩くと自由通路があります。地下から丸の内側へ行けるようになっています。丸の内側も地下街は広がっており、地下から「KITTE」(千代田区丸の内)という商業施設や丸の内ビルディング(丸ビル)、新丸の内ビルディング(新丸ビル)へ行けるのです。

 丸ビルのところで地上へ上がります。丸ビルの南側にはリーフデ号のモニュメントがあります。なぜここにあるかといえば、かつてヤン・ヨーステンの屋敷があった八代洲河岸がこの近くだったからです。このモニュメントは1980(昭和55)年にオランダのファン・アフト首相が来日したとき、オランダ政府から日本政府へと寄贈されたものです。

 八重洲の地名にまつわる場所を見て回るだけでも、けっこうな距離を歩くことになります。みなさんも八重洲の語源になったスポットを、散歩してみてはいかがでしょうか。

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