約100年前に勃発、村民の存亡をかけた「玉川上水盗水作戦」とは何か?

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約100年前に勃発、村民の存亡をかけた「玉川上水盗水作戦」とは何か?

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黒沢永紀(都市探検家・軍艦島伝道師)

住宅が密集する幡ヶ谷エリアに約100年前、水を巡る知られざる戦いがありました。そのエピソードについて、都市探検家・軍艦島伝道師の黒沢永紀さんが解説します。

玉川上水とは何か?

 京王線笹塚駅の南口駅前には、江戸時代に築造された玉川上水の一部が、今も水面を見せています。両岸には桜が植樹され、春には花を咲かせて通るものを楽しませ、夏には深い緑が上水路にアーチをかけて、オアシスのような空間を作り出します。そんな上水跡の一角に、かつて上水の水を分水していた分水口の跡がひっそりと眠っています。今回は、その小さな石垣に秘められた、壮絶な村民生き残りの物語です。

下流域では数少ない水面が見える笹塚駅南口付近のオアシスのような玉川上水跡(画像:黒沢永紀)



 江戸時代の初期、市中の人口の急増によって、従来の神田上水だけではまかないきれず、急遽築造されたのが玉川上水でした。玉川兄弟の指揮のもと、羽村(現在の東京都羽村市)から多摩川の水を取水し、四谷大木戸(四谷4丁目交差点付近)まで、総延長約43キロの人工水路を、わずか8か月(一説には1年5か月)で造ってしまったというから、驚きに絶えません。

 現在、上流区域は江戸時代と同様に多摩川からの分水が通水し、清らかに流れる水面を見ることもできますが、京王井の頭線の富士見ヶ丘駅の南付近で暗渠になり、それ以降四谷4丁目まで水面が見えるのは、この笹塚駅南口周辺の2か所と京王線代田橋駅の東側の一部だけとなっています。なお、上流部は、江戸時代と同様に多摩川からの分水が今も流れますが、笹塚および代田橋界隈の水流は、多摩川のものではなく、近隣の地下水や天水によるもの。そのため、勢いよく流れることはありません。

分水口の大きさはキャッシュカードの3分の2

 1700年代に入って武蔵野に新田が開発されると、それに併せて多くの分水路が設けられ、玉川上水は新田開発に大きく貢献しました。上流の分水口はサイズが大きく、特に有名な野火止(のびどめ)用水は6尺(約180cm)四方もある巨大な分水口でした。平均的には1尺(約30cm)四方で、最も小さかったのが幡ヶ谷の分水口。そのサイズはなんと2寸(6cm)四方程度というから、キャッシュカードの3分の2程の大きさしかなかったことになります。冒頭で触れた小さな石垣が、この幡ヶ谷の分水口の跡です。

幡ヶ谷分水口の跡。現在残るのは最後に分水口が拡張された後のものと思われる(画像:黒沢永紀)

 幡ヶ谷分水口から分かれた上水は、笹塚駅から見て主に北東の方角に当たる幡ヶ谷村一帯の農業用水として使用されていました。今でこそ密集する住宅地ですが、戦前までは農耕地で、ところどころに水車が回る田園風景が広がっていたエリアです。

村民の存亡をかけた大作戦

 玉川上水からの分水以前は、杉並区の和泉付近の湧水池を水源とする細流がいくつかあり、その川の水でまかなっていました。この細流はやがて西新宿で神田川に合流していたことから、神田川笹塚支流と呼ばれたり、またその源流の地名から和泉川と呼ばれたりもします。

甲州街道から北へ伸びていた逆川から笹塚支流への落水路の跡(画像:黒沢永紀)



 しかし笹塚支流は、あまり良水とはいえず、いつも水不足に悩まされていたといいます。そこへ玉川上水が完成し、分水口が設けられることになったので、地域の住民は分水口から引いた水を、笹塚支流の上流域へ落水することにしました。

 幡ヶ谷分水口から甲州街道まで、一直線に真北への引水は問題ありませんが、そこから笹塚支流の上流へ合流させるには、甲州街道を西へ流さなくてはなりませんでした。しかし東京の川は基本的に山岳地帯から東京湾へ、すなわち西から東へ流れるのが普通なので、いわば逆流させることになります。そのことからこの川は逆川と呼ばれていました。

 玉川上水からの落水で水量が増え、村民の少なかった江戸時代は、それで十分潤っていました。しかし、明治になって人口が急増し、水田も激増して水の需要も飛躍的に拡大すると、再び水不足に悩まされることとなります。村民はいく度となく、取水口の拡張を申し出るものの、お上がまったく取り合ってくれません。もはや死活問題となった村民が思いついた苦肉の作が「玉川上水盗水作戦」でした。

「玉川上水盗水作戦」とは何か?

 その作戦とは、笹塚支流の下流域にあった弁天神社の弁天さまをこの取水口のすぐ近くに遷座(せんざ。神仏の座を移すこと)して祠を建て、その周りに池を造って弁天池とし、池の地下と玉川上水を地下水路でつないで、池と上水を通水するというものでした。村民が交代で夜な夜な掘り続けた結果、やがて上水路と繋がった池は水をたたえ、それをあたかも湧き池のように装って、池を経由した玉川上水の水を逆川へ流し込んだといいます。

逆川から笹塚支流への落水路のうち、水路の形がかろうじて確認できる区間(画像:黒沢永紀)

 やがて時代は大正に入り、幡ヶ谷地区の農村を苦しめた分水制限も緩和して水量が増えると、弁天さまの偽装湧き池も必要がなくなり、本尊の弁天さまは幡ヶ谷地区にある氷川神社へ摂取され、境内の片隅に厳島神社として祀られることに。こうして村の存亡をかけた「玉川上水盗水作戦」は終わりを迎えました。

幡ヶ谷分水の現在

 現在、甲州街道を逆流した逆川は、高速道路や環七のアンダーパスなどの整備の結果、跡形もありません。また、上水から通水した弁天池も、今ではなんの痕跡もなく、学習塾の入居した小規模なビルや民家があるばかりです。

 ただ、甲州街道から北の、笹塚支流へつなげた流路はいまでも路地として残り、渋谷区と杉並区の区界の役割も果たしています。また、笹塚支流への合流点付近になると、今でも流路にコンクリートの蓋をしただけの区間も、かろうじて残っています。

氷川神社に摂社された厳島神社のお社(画像:黒沢永紀)



 また前述の氷川神社は、現在も幡ヶ谷地区の守り神としてしっかりと存続し、境内のいくつかの摂社の一つに、幡ヶ谷村の命運を担った弁天さまを祀る厳島神社もあります。鳥よけの網がかけられ、埃をかぶってなかば廃墟状態の小さな摂社ですが、確かに厳島神社の名称は読み取れます。

『幡ヶ谷郷土誌』によると、この弁天さまは自然石をほぼそのまま祀ったようなもので、神社の神主さんの話だと、今でも小さな祠の中に祀られているとのこと。しかし、扉の隙間から失礼して中をのぞかせていただくと、祠の中には弁天石はもちろん、何もありません。果たして、幡ヶ谷村の村民を救った弁天さまは、どこへ行ってしまったのでしょうか。

 住宅やマンションが密集する現在の幡ヶ谷エリアに、かつて田園風景が広がっていたとはとても想像できません。しかし、つい100年くらい前に、水を巡る知られざる戦いがあったことを、この小さな石垣は静かに物語っていました。東京には、あらゆるところにエピソードがあることを、改めて実感させられます。

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