有名西洋料理店にお好み焼き屋。靖国神社のおかげで繁華街になった九段下

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有名西洋料理店にお好み焼き屋。靖国神社のおかげで繁華街になった九段下

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靖国神社がある九段下。現在は閑静な住宅街・オフィス街になっている靖国神社の南側は、かつては有名西洋料理店やお好み焼き屋が存在する繁華街(富士見町)でした。『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』でとんかつの歴史を、『お好み焼きの戦前史』でお好み焼きの歴史を描いた食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。

「ぽん多本家」創業者が九段下で学んだ「ポークカツレツ」

 御徒町の西洋料理店、「ぽん多本家」。

ぽん多本家(画像:近代食文化研究会)



 とんかつ店として紹介されることの多いぽん多本家ですが、メニューに記載されているのは「とんかつ」ではなく「カツレツ」。創業者は明治時代の有名西洋料理店で学んだポークカツレツに工夫を加え、店の名物としたのです。

  『食生活』(1977年10~11月号)の二代目店主島田忠彦へのインタビュー記事によると、ぽん多創業者島田信二郎は九段下富士見町の富士見軒で修行したそうです。
 
 富士見軒といえば明治期を代表する西洋料理店。1885(明治18)年の『東京流行細見記 一』に東京の代表的西洋料理店として富士見軒の名が、そして代表的メニューとして「かつれつ」が記載されています。

『東京流行細見記 一』真ん中左に「富士見」、右下に「かむろ そつぷ おむれつ しちう かつれつ」の文字(画像:国会図書館ウェブサイト)

 時事新報1890(明治23)年5月4日の記事「東京案内」には、“有名なる東京の西洋料理屋”として富士見軒の名が、“大抵の料理屋にある品”として“ポーク カトレツト(豚肉揚物)”が例示されています。

 富士見軒において少ない油で色濃く揚げていたポークカツレツを、創業者がたっぷりの油で薄い色で揚げるように工夫したというのが、二代目が語るぽん多名物カツレツの誕生経緯です(詳細については拙著『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』参照)。

九段下の店が大阪に伝えたお好み焼き

 1937(昭和12)年4月25~27日にかけて、大阪松坂屋で「東海道うまいもの会」が開催されました。東京、名古屋、京都といった東海道各地の名物を一同に集めた、いわゆる物産展です。

 甘納豆の榮太郎、洋菓子のコロンバンとともに東京代表として出場したのは、お好み焼きの「ふじや」。九段下富士見町のお好み焼き屋でした。

『食通』(1937年5月号)巻頭写真「東海道うまいもの会」より物産展のふじや仮設店舗(画像:近代食文化研究会)

 お好み焼きは、明治時代末の東京で子供向け屋台として生まれた商売。大正時代には浅草に「橘屋」という、大人向けの店舗形式のお好み焼き屋が登場します(詳細については拙著『お好み焼きの戦前史』参照)。

 子供向けのお好み焼き屋台は大正時代に大阪に伝わり、「洋食焼」「一銭洋食」の名で親しまれていました。ところが大人が自分で焼く店舗形式のお好み焼き屋は、大阪には存在しなかったのです。

 大阪の人々が初めて目にする物産展のお好み焼き屋。その「ふじや」に当時人気だった二枚目俳優、林長二郎(長谷川一夫)がサプライズ登場し、世間の注目を集めました。

 その結果大阪に「大人が焼く」お好み焼き屋が伝わり、同じ年に大阪最古と言われたお好み焼き屋「以登家(いとや)」が開店します。

 大阪にお好み焼き店という商売を伝えたのは、九段下の店だったのです。

九段下が繁華街になった理由

 「富士見軒」や「ふじや」が存在した富士見町は、現在は千代田区九段南二丁目に町名が変わっています。閑静なオフィス街・住宅街である九段南二丁目から三丁目にかけての地域は、戦前は繁華街としてにぎわっていました。

現在は閑静な九段下三丁目周辺(画像:近代食文化研究会)

 旧富士見町が繁華街として発展した理由は、その北に隣接する靖国神社にありました。

 靖国神社は1869(明治2)年に創建された東京招魂社がその前身。神社参拝者相手の茶店を始まりとしてその南側に花街が形成され、昭和初期には芸妓屋100軒・待合120軒の一大花街へと発展していきます(加藤政洋『花街』2005年刊)。この花街の中心が旧富士見町だったのです。

 つまり戦前の靖国神社の参拝者は、戦没者の慰霊の後に芸者遊びをしていたのです。

 寺社の門前町に花街が形成されるのは江戸時代からの伝統。例えば伊勢神宮の近くには古市という江戸時代有数の巨大遊郭が存在し、お伊勢参りの客でにぎわっていました。

幕末以降、戦没者を祭る靖国神社周辺にも人が多く集まり、門前町を形成していた(画像:近代食文化研究会)

 靖国神社の参拝客目当てに花街が形成されるのは、当時としては至極当然のことだったのです。

 花街が形成されると、客や従業員目当てに飲食店が集積します。そして明治時代以降に発展した花街には、洋食店が多く存在しました。富士見軒はそのような、花街に発展した西洋料理店の一つだったのです。

>>関連記事:銀座の老舗洋食店の常連客はなぜ芸者衆だったのか?密接だった花柳界と洋食店との関係

 そして大正時代に東京で生まれたお好み焼き屋も、花街に多く分布しました。「ふじや」はそのような店の一つだったのです。お好み焼きと芸者との密接な関係については、拙著『お好み焼きの戦前史』を参照してください。

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