本館建て替えが話題に――帝国ホテルと渋沢栄一の誇り高き歴史を振り返る【青天を衝け 序説】
“日本資本主義の父”で、新1万円札の顔としても注目される渋沢栄一が活躍するNHK大河ドラマ「青天を衝け」。そんな同作をより楽しめる豆知識を、フリーランスライターの小川裕夫さんが紹介します。1890年開業の一流ホテル 3月16日(火)、帝国ホテルが主力となる帝国ホテル東京(千代田区内幸町)の本館の建て替えを検討していると報道され、話題となりました。 1890(明治23)年に創業した帝国ホテルは、質の高いサービスや食事、高級感などを堪能できる空間として知られ、国内外から高い評判を得ていることから、“帝国”の名前にふさわしいホテルと言えます。 帝国ホテルは、NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一が政財界に呼びかけて実現したホテルで、初代会長も務めました。渋沢は「資本主義の父」と呼ばれる実業家でしたが、営利を第一に帝国ホテルの開業を目指したわけではありません。 2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』のウェブサイト(画像:NHK) 鎖国が解かれた幕末期、多くの外国人が日本を訪れるようになりました。当初、外国人の多くは西洋人で、その多くは旧来の商習慣が残る旅館に宿泊していました。開国により少しずつ訪日外国人が増えていたとはいえ、その数は決して多くありません。それまでの旅館で十分に宿泊需要は賄えたのです。 しかし、明治新政府が発足すると事情が一変。発足したばかりの新政府は財政が逼迫(ひっぱく)しており、財政を好転させるべく外貨の獲得に傾注します。 政府は、外貨獲得政策として生糸と茶の輸出に力を入れます。こうして国内の産業振興を図る一方、多くの外国人に日本を観光してもらうことに取り組みました。現代風に言えば、インバウンドを期待した政策です。 訪日外国人観光客を増やすためには、日本が魅力的な観光地であることをPRしなければなりませんが、バラバラに宣伝しても訴求できません。現在なら、地方自治体の観光課などが名所やおいしい郷土食をPRして誘客を図ることは当たり前ですが、当時は政府がPRをする時代ではありませんでした。 渋沢は旧徳島藩主だった蜂須賀茂韶(はちすか もちあき)を会長にした喜賓会(きひんかい)を1893年に設立。喜賓会は観光協会と旅行代理店を合わせたような、各地の観光・郷土料理のPR、それらを巡るためのツアー行程を作成するといった業務を担当しました。 開業には政財界オールスターが協力開業には政財界オールスターが協力 喜賓会を立ち上げると同時に、渋沢は宿泊施設の整備にも取り掛かります。 初代外務大臣として鹿鳴館(ろくめいかん)外交を主導した井上馨は、渋沢が官職勤めだった頃の上司でもあり、訪日外国人へのもてなしに心を砕いた人物です。 井上は外国人に満足してもらうために、旧来の旅館ではなく西洋のようなホテルが必要だと考えました。しかし、外務大臣だった井上は最大のミッションである条約改正に失敗。責任をとって辞任します。これにより、ホテル構想も白紙に戻りました。 渋沢は井上の構想を受け継ぎます。そして、三菱の総帥・岩崎弥之助、大倉組のトップ・大倉喜八郎、日本銀行総裁・川田小一郎、三井物産社長の益田孝といった政財界の有力者に協力を呼びかけて、西洋式のホテルの実現を目指したのです。 政財界のオールスターともいうべきメンバーの協力もあって、帝国ホテルは開業。しかし、当初は営業的に苦戦が続きました。来日する外国人観光客は多くなく、ホテルに不慣れな日本人の利用も少なかったからです。 帝国ホテル東京は有楽町の劇場街と日比谷公園の間に所在。多くの人が行き交う(画像:小川裕夫) 帝国ホテルは宿泊事業という営利目的ではなく、あくまでも日本の魅力を海外に知ってもらうための情報拠点・海外との交流施設と捉えていた渋沢は、無配でも辛抱強く我慢してもらうよう出資者を説得して回りました。出資者たちも渋沢を信じ、苦しいながらも帝国ホテルは経営を続けます。 渋沢の考え方はスタッフの陣容からもうかがえます。開業時に料理長を務めた吉川兼吉は、横浜のホテルで修行した西洋の知識と技術にたけた料理人でした。 また、1909(明治42)年に支配人に就任した林愛作は日本古美術商の山中商会ニューヨーク支店に長らく勤務していた国際感覚が豊かな人物でした。林は渋沢が三顧の礼をもって迎えるほどでした。 落成披露宴当日に関東大震災発生 帝国ホテルは、第1次世界大戦による好景気で営業成績は上向いていきました。その後も利用者が堅調に増え、部屋数を増やすために帝国ホテルは隣地にあった内務省官舎を買収する計画が持ち上がります。 官尊民卑の意識が強かった当時、民間ホテルに官舎の敷地を譲り渡すような形で売却することは許されることではなく、買収交渉は困難を極めます。交渉中も大臣が頻繁に交代するので、そのつど交渉をやり直すことになりました。結局、内務省との交渉は十数年に及んでいます。 渋沢栄一(画像:深谷市、日本経済新聞社) 帝国ホテルは1922(大正11)年に本館を火災で失います。取得した隣地に、アメリカ人建築家のフランク・ロイド・ライトが設計した新しい本館が建設されることになりました。それだけにライトによる新しい本館は、大きな期待を背負うことになります。 新しい本館は1923年に完成。ライト館と呼ばれて親しまれました。しかし、ライト館に不運が襲います。 完成を記念した落成披露宴の当日に関東大震災が発生。ライト館は倒壊を免れ、その後の火事でも無事でした。関東大震災で東京が灰じんに帰したことから、帝国ホテルは被災民の避難所として使用されます。アメリカ大使館は震災で使用不可能になってこともあり、帝国ホテルの一室を事務所として代替しました。 こうしたエピソードからも、渋沢が企図していた海外との交流施設ということをうかがい知ることができます。 日比谷再開発で問われるホテルの価値日比谷再開発で問われるホテルの価値 ライト館は関東大震災だけではなく、戦災にも耐えました。しかし、増える客室需要に対応しなければならないことや設備の更新といった理由から1967(昭和42)年に閉鎖。ライト館に替わる新しい本館が建設されることになりました。名建築の誉れが高いライト館は、愛知県犬山市の明治村に移築保存されました。 現在の本館は、ライト館に替わるものとして1970年に完成。これが、報道されている現在の本館です。 設計を担当したのは高橋貞太郎(ていたろう)。高橋は明治神宮の造営にも関わり、高島屋百貨店東京本店なども手がけた一流の建築家です。しかし、ライト館の人気が高かったこともあり、高橋の設計した現・帝国ホテル本館はデザイン的にも高い評価を受けることは多くありません。 それでも、今回の建て替え報道が出たことで、高橋のデザインした帝国ホテル東京の本館が再評価される向きも出てくることでしょう。 現在、帝国ホテルの筆頭株主である三井不動産は、日比谷一帯の再開発を進めている。帝国ホテル東京の左奥に見えるビルは、三井不動産が手がけた東京ミッドタウン日比谷(画像:小川裕夫) 渋沢が構想し、そして多くのスタッフによって帝国ホテルは現在も日本を代表するホテルとして輝き続けています。 現在、帝国ホテルの立地する東京・内幸町の一帯は隣接する日比谷かいわいの再開発によって街が大きく変貌しています。建て替えられる本館が、どのように生まれ変わるのか――帝国ホテルへの期待も高まります。
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